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プロローグ

なこーび・なかおびえ・中帯江

 私たちが住んでいる倉敷市中帯江。実は私たちは、住みやすいことでも定評のあるこの岡山県でも、ここは特別に住みやすいと思っているのです。なんで?といわれましても、「そうなんだ」としか言えませんが、まあ聞いてください。
ということで、自画自賛?の「中帯江の風土記」、始めさせていただきます。

1、 そもそもこの土地は、

 ここが「吉備の国」と言われていたはるかな昔は、瀬戸内海に浮かぶ「早島(隼島)」という島の一角でした。周囲は全部海だったのです。そこにいつごろから人が住み始めたのでしょう。隣の五日市には貝塚がありますし、かなり古い時代からということが出来るでしょうが、村落として形をなすのはずっと後、今の県道を埋め立て堤防(宇喜田堤)として新田地帯が開かれた天正のころ・・・すなわち豊臣秀吉のころということができますでしょう。

2、 江戸時代に入りますと、

 西田、早高など沖へ沖へと干拓がすすみ、ここ中帯江の地も急速に発展していきます。「中帯江村」となり早島戸川家3,000石の一部となります。代官屋敷、大庄屋などがおかれ、年寄りなど村役制度も整備されます。新田地帯では、綿花やい草、米などの栽培がはじまります。江戸中期以降には観音寺も繁昌し、門前町的集落も発達してきます。こうして江戸時代末期には、ほぼ現在の集落の原型のようなものが出来上がったと思われます。

3、 ではなぜここが中帯江なのでしょうか?

 「帯江」という名はこの早島丘陵の北側に、海の入り江が帯のように伸びていたところからきたといわれています。だから今の中庄あたりがそうだったのでしょう。そして江戸初期には、倉敷市二日市あたりが「帯江」と呼ばれています。
 では「中帯江村」の名がついたのはいつか?南の新田地帯は今の倉敷の街と同じ時期に陸地になったのですが、そのあと、豊臣時代の太閤検地の頃ではないかと想像されます。ほぼ400年前のことでした。

 ではでは、はじまりはじまり~


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