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五日市の旧庄屋家は今?

 豊洲地区の最西部倉敷市五日市は北側に山があり、豊洲では最も歴史が古いと思われるところのひとつです。ところがこの地区は豊洲では唯一江戸時代に帯江戸川家の知行所になっていたところです。そのため「帯江村史(S31)」や「早島の歴史」の範囲からは基本的に外され、文献資料の少ない地域になっているのです。

五日市村庄屋嘉八郎

 わずかに「帯江村史」の93頁や173頁には江戸時代の文献で「五日市村庄屋嘉八郎」というのが出てきます。ではこれはどの家?
 というところで今回情報が寄せられました。「それはうちの本家じゃ。」といわれるのは、大原一郎さんです。

 五日市は山地と里とに分かれていて、山地は早島丘陵の南の谷沿いに人家が並んでいます。土地がその下の道路からかすかに上がっていて、400年前の干拓の前からあそこまでが陸地だったのかな・・・と想像されます。その一画の大原家、分家とはいえなかなかの旧家ぶりでした。
 旧庄屋の大原家はそのお宅の隣にあったそうで、現在は一郎さんのご子息のお宅になっています。古い文献などは失われてしまったといわれ、お墓に案内していただきました。

嘉八郎=大原嘉八郎

 旧宅の裏手の山の中、他家のお墓からは離れてその「庄屋墓」は並んでいます。あっ、いきなり「大原嘉八郎」の名が目に飛び込んできたではありませんか。もう間違いありません。五日市村庄屋嘉八郎は「大原嘉八郎」だったのです。文化六年(1809)歿とあります。江戸後期の人のようです。ほかにも寛政、享保、文政、享和・・という文字がやっと読み取れました。また社形のお墓や不明の古墓がたくさん並んでいます。また一番新しいのは明治2年(1869)のようでした。どうやら明治になって絶えるかどうかなったようです。

 古い文献がないとはいえ、五日市地区の旧庄屋家が確認できたのは大きな収穫でした。倉敷の著名な大原家(元800町歩の大地主、現在のクラボウ、大原美術館などを創立)と関係があるのかどうか?まだまだ調査対象は広がるのですが、今回はこの大原家の家紋が「丸に五三の桐」だったとだけ紹介してレポートを終わりにしたいと思います。(2004,10)

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