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「せーのかみ」のなぞ

  倉敷市中帯江に「せーのかみ」またの名を「せのかみ」というところがあると聞いたのはつい最近、「中帯江の風土記」編纂に関係するようになってからのことです。もちろん新田地帯から旧の観音道をたどって、山路に入るところに、三角形の土地があって、大きな木のほかにいくつかの祠や自然石の灯篭がある・・・ということは知っていたのですけれども。

 ここのことを地元では「せーのかみ」「せのかみ」などと言ってきました。「何のいみなんだろう?」と考える人はよくいたのですが、定説はありませんでした。
 「瀬の神」「瀬の上」「瀬の守」あるいは「畝の神」「畝の上」、はては「賽の神」(賽の河原から)などの説があり、侃々諤々状態であったのです。いったいどういう意味なんだろう・・・。本当になぞだったのです。

「塞の神(さいのかみ)」なんだそうです?

 そこへ福田史談会の高橋さんがこられて、「これは塞の神(さいのかみ)といって、村の入り口などにあり、疫病などの侵入を防ぐための神様です。あちこちにあるようです。」とのご託宣。

 ふーん、そうなんだ。そういえば、「ふさぎのかみ」とも読めそうですね。また祠の1つは「岐の神」とも書いてあります。「さかいの神」の意味なんでしょう。

 でも、長いこと疑問に思っていたこと。こんなに簡単に結論を出してほしくない・・・。なんて方もおられます。その気持ちはよくわかりますね。

 この中帯江地区の多くが陸地になったのは、天正のころと言いますから、400年以上前のこと。その新田地帯と、古い島(早島・隼島)の土地との境に、こうした神々が祭られ始めたのは、いったいいつごろのことなんでしょうね。以前はこのすぐ下が、主要街道と観音道の交差点で、そこにあった常夜灯(金毘羅灯篭)も今ではこの「せーのかみ」のなかに移されています。おそらくいくつかの祠のなかには、他から移されたものもあると思われます。
 でも、こうした古くからの祠が残され、今でもお祭りが行われているというのは、貴重なことですね。(2006,9)

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