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『紀州新宮よりお供』深まる謎??
ーーついに新宮へ取材旅行決行ーー

 倉敷市中帯江の元大庄屋永瀬家についての情報でした。30数軒というご子孫の一人永瀬虎一さんが言われるのです。
 「早島町史(190頁)に『紀州新宮より御国入りの節御供其後御召抱え』として永瀬又七の名が他の7人とともに出てくる。これはどういうことだろう?」

鳥居家と児島熊野神社

 『永瀬又七』とは中帯江のもと大庄屋大前永瀬家で代々受け継がれてきた名前です。でもそれが和歌山県の新宮市からきたとはどういうことでしょう。あまりに遠いではありませんか。同町史ではほかにも「乾、寺山、小野、太田、中田、舟越」などの名前が見えます。
 地元で考えた一つは、「早島戸川家8代の戸川安昶(やすてる)は鳥居丹波守の十男が安永6年(1777)に養子に入ったもの。鳥居家の元は熊野神社の別当であった。そのあたりに何かヒントがないだろうか?」(片山新助さん)でした。
 鳥居家は栃木県壬生町にあった大名で、老中なども勤めています。中世に熊野別当だったとしても近世は・・・。鳥居氏は南北朝後に三河に移り、そこで徳川譜代になったとあり、江戸時代に熊野神社と関係があったかどうかは不明です。

 もう一つの案は、「児島庄内の熊野神社勧請のときについてきた人たちでは・・・」というものです。しかし児島の熊野大権現の歴史は古く、はたしてそのときに来た人達が海を渡って早島の地に定着し、その記憶が近世の徳川時代までまとまって残っていたでしょうか?児島と早島は当時海を隔ててあまりに遠く・・・これも謎が多すぎます。
 ともんもんとしているところへ、新宮へ行く機会が訪れたのです。

ついに新宮へ取材行。三原の浅野家?

 私のもう一つの趣味西国33観音巡りで、遠い遠い一番札所那智青岸渡寺へ行ってみようと決心したのです。遅い夏休みを取った10月のはじめ、その旅は決行できました。(写真は那智の滝)
 本当に遠かったです。8時間かけての新宮行きでした。早朝の青岸渡寺にお参りした後新宮市立図書館をお訪ねしました。
 ちょうど司書の山崎さんが「今日は休みですので、熊野古道を歩こうと思っていたのですが、この雨ですのでね。」と付き合ってくださいました。感謝感謝!!
 「ここにこんな記事があります・・・」次々に私の前に積み上げられる資料の山。とても詳しく読むに至りません。それでも山崎さんの解説でなんとか理解して行ったのですが・・・。
 「どうでしょうね。児島の熊野神社はたしかに五流が行った全国でも重要なものですが、時代があまりに違いますしねー・・・」
 というなかで出てきたのが、
 「さてはあれかな?。新宮から多くの人が出たといえば、各地の熊野神社へのほかに、江戸初期に領主の浅野氏が広島県の三原に移った時の事があります。名簿には80数名があるのですが、足軽まで入れるとおそらく200名を越えたと思います。そのうちの一部が早島に・・・」
 しかし「えっ、三原と早島ってそんなに離れているのですか。じゃ無理かなー。」
 念のためにそのときの名簿もあたってみましたが、全く手がかりはありませんでした。

早島熊野神社関連はどうでしょう

 「ではこれはどうでしょう?」と山崎さんが出してこられたのは、天文3年(1534)勧請という早島の熊野神社(早島町八尾)のことです。「熊野神社が勧請されると、必ず熊野からは神官を中心としたまとまった人がついて行きます。
 時代的には早島戸川家成立の100年ほど前ですし、子孫にその伝承が残っていてもおかしくない。早島熊野神社は早玉之男が奉られていますし、新宮の熊野速玉神社(写真右)が出ていることはちがいありません。ただ、そのときについていく神官はたいてい、鈴木、宇井、榎本の3家が含まれているんですけどね。その8人の名の中に3家が無いのが不思議です。」
 う~~ん。有力案がでてきましたね。でもまだ決定打不足です。

 「あの、鳥居家10男はどうでしょう?。」としつこくこだわる私。山崎さんは、鳥居禅尼や鳥居家先祖のことも含めて詳しく解説してくださいました。どうも無理筋の可能性が高いようです。戸川安昶が養子に入ったという安永6年の新宮の年譜のようなものにも関連記事は見つけられませんでした。

   「よくわかりませんが、直感的には早島の熊野神社の関連ではないかと思われますね。」山崎さんのご託宣が下ってしまいました。これは早く帰ってこの方向を調査しなくては・・・。
 私の新宮行きは多くの宿題をかかえてしまいました。(2004、10)

熊野神社本宮(なるほど児島の熊野神社とそっくり)熊野那智大社(本宮、新宮、那智で熊野三山)
新宮市にはなんと、徐福のお墓がありました。
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