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なんと、「豊洲村史誌」が出来ていました

 私が「帯江の歴史・取材記編」を出版してからしばらくしてのことです。「次は何をやるの?」という質問を受けました。「さあ、旧隣村の豊洲はこれまで歴史についての出版もないし、調べてみてもよいかなとも思っています。」などと答えてしまったのです。

五日市、中帯江、西田、早高、高須賀の五地区

 現在の倉敷市東部豊洲地区は、昭和27年の倉敷市への合併前は、都窪郡豊洲村でした。現在の地名で言うと、倉敷市五日市、中帯江、西田、早高、高須賀の五地区です。そして五日市、中帯江の山地には帯江ハイツ、観音台団地といった大団地も造成されています。倉敷市帯江地区と早島町にはさまれたこの地域を「豊洲地区」といいまして、倉敷市立豊洲小学校の学区とも重なります。
 近隣の地区では過去に「帯江村史」「庄村史」「藤戸町史」「茶屋町史」「早島町史」などが発行されているのですが、この豊洲地区(豊洲村)についてはそれがないようなのです。
 私も機会があればいつか調査してみたいと日頃から思っていたのも事実です。実は私の生まれ育った倉敷市亀山の旧小字「十六の割」は、明治22年の町村合併までは「西田村西の内」として今の豊洲地区に所属していたという経過もあるのです。個人的にも関係の濃い地域です。というわけで、ここに「豊洲の歴史・取材記編」始めたいと思います。えっ、また「取材記編」かですって?。ごめんなさい。現在の私にはこういった手法しか考えつかないものですから。
 私が子供の頃は、帯江地区と豊洲地区は同じ「帯江中学校」に通っていました。というわけで豊洲地区には同窓生がたくさんおられます。そういう方々を頼って取材を開始していたときです。
 「早高の小原さんが、歴史が好きでいろいろ調べておられましたよ。『豊洲村史』を作るんだと頑張っておられたんだけどなー。亡くなられたそうです。」という話しを聞かされたのです。
 すごい情報です。やはり豊洲にもそういう方がおられたのです。さっそく訪問させていただきました。その方は故小原俊昭さんとおっしゃられて、現在息子さんは岡山市在住だそうです。倉敷市早高には甥の方がおられました。私が「実は豊洲の歴史を調べたいので、史料などが残っているようでしたら見せていただけないでしょうか?」とお尋ねしたところ、快く引き受けてくださって、岡山市の息子さんのところから資料一式を取り寄せていただきました。そして、資料をみてびっくり!!

「豊洲」はなぜ「豊洲」というんだろう?

 な、なんと、コピー製本とはいえ、「豊洲村史誌」というのが見事に出来上がっているではありませんか。平成元年の日付です。そしてその「本」に補筆した原稿が2冊、こちらは平成3年までの日付になっています。どうやら小原俊昭さん、平成元年に一度まとめられてコピー製本で何冊か出版、その後も添削を繰り返し、出版を計画なさっていたようなのです。
 中を見ますと、私が日頃から疑問に思っていた「豊洲って、いつどうしてこの名前がついたんだろう?」ということへの回答をはじめ、様々なことが書き記され、小学校の変遷や戦没者名簿など資料としても貴重なものが豊富に盛り込まれているではありませんか。  こ、これは私がホームページであれこれと引用するよりは、「このまま本にして出版したらどうだろう?」・・・というのが読み終わったときの私の率直な感想でした。
 というわけで再び豊洲地区の知人を頼って、出版実現にむけての行動を始めたのではあります。はたしてどうなりますことでしょう?。経過はまた次回レポートで報告します。(2004,7)

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