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昭和13年の8ミリフィルム発見!

 我が家から200mばかり、私が子供の頃から目立っていた一軒のお宅があります。当時はずらりと揃った松の木がそれはきれいでした。倉敷市西田の渡邊家で、地元では「大渡辺」と呼ばれています。戦前までは大地主だったお宅です。今回縁あってこの渡邊家を調査させていただきました。

シーメンスの8ミリカメラは、ジーと音を立てて

 私にとってこの調査は興奮の連続でした。最初は何と言っても戦前(昭和10年代)から使われてきた、8ミリフィルムのプロジェクター、カメラ、そしてフィルム類です。当時こうしたものは、それこそ「家が建つ」くらいの貴重なものだったに違いありません。
 洒落た茶箪笥にしまわれ、注油器や油も完備された、それこそほこり一つかぶってないいい保存状態だったのです。ピカピカのカメラは「ダブル8」というもので、ドイツのシーメンス社のものでした。あとで聞いたところでは、当時の日本ではアメリカやイギリス製のものが主流で、ドイツ製のものは大変に珍しいということでした。先日亡くなられた渡邊玉恵さんが「以前主人が、日本に2台だけ入った物を買ったと話していましたよ。」と証言されていたそうです。思わず取っ手を廻してゼンマイをかけたところ、何とジージーと動くではありませんか。レンズも見たところカビなどなくてきれいです。もし今でもダブル8のフィルムがあるならば、ちゃんと撮影できるに違いありません。
 (注:ダブル8とは、16ミリフィルムの両側に2倍のパーフォレーション(穴)が刻まれ、一度撮影した後方向を逆にして(裏)撮影し、現像した後、半分に裁断して映写する8ミリフィルムで、戦後に「シングル8」が出るまでは民生用フィルムの主流だった)
 プロジェクターは、中央に穴の開いた9ミリフィルム用で、それ用のカメラや、市販の映画フィルムも見つかりました。
 いずれも当時の渡邊家のご当主渡邊正爾さんが愛用されていたものだそうです。

アーチのある家や、岡山後楽園での舟遊び

 同時に現像済みの8ミリフィルムがたくさんでてきました。箱には「昭和13年(1938)・・・」などと書いてあります。何だか貴重な、大変に珍しいものを(修飾語が2段になることをご容赦!?)発見してしまったようです。
 地元のテレビ局山陽放送に持ち込みました。こうした古いフィルムなどを映像化することでも実績を持つ局だからです。ちゃんとこのフィルムがかかる映写機も備えられているようです。フィルムは20数本、約80分ぶんもあり、早速8月19日の山陽TVイブニングニュースで速報されました。
 ライブラリー担当の小松原貢氏のお話しでは、これまで倉敷の大橋家や笠岡の黒田家などの戦前の映像が発見されてきたけれども、それと並ぶ貴重なものだということでした。そうでしょう。当時は周り中田んぼが続いた(我が家など周囲100mに家がありませんでした)田舎のお宅で、いくら大地主といってもムービーカメラを持って歩き回る趣味を持った人がいて、多くの映像を残されたのです。当時の日本で何人いたのでしょうか?
 「アーチのある洋館建ての家や、岡山後楽園近くでの舟遊び、鶴見橋下での子供達の水遊び・・・」といったものがあったそうです。
 親戚のお年よりのお話しです。「そうそう、正爾さんがよくカメラを持ってうろうろされて、私なども何度も映してもろうたんよ。」うーーん。すごい。

30数町歩の大地主

 渡邊家は江戸中期から都宇郡西田村(現在の倉敷市西田)に居を構え、次々に持ち田を増やして、明治初期にはついに30数町歩といいますから、西田地区のほぼ半分を所有する大地主になっていった家です。ちなみに我が家も明治22年の町村合併までは西田村で、「ひとまち(1反歩)」が元渡邊家所有の田んぼでした。(母の話では、戦後の農地解放の時、一反1,000円で買ったそうです。当時は1,000円というと高額で、周囲には買えない家もあって長く地代を払い続けたお宅もあるそうです)

 続けて渡邊家についてのお話です。「戦後の農地開放で貧乏したんですが、それでも子供達を音楽学校に行かせ・・」「正爾さんの奥様の玉恵さんは、油絵や焼き物が趣味で、戦後の県展に何度も入選・・」
 う~ん。こんなに近くに、こんなにも文化の香りを漂わせるお宅があったなんて・・。あ、そういえば西田の別の渡辺家には、渡辺翠峯さんという岡山県下で著名な書家もおられました。この豊洲地区は江戸干拓地のなかでも、戦前から文化の香りを発信してきた土地柄なのかもしれませんね。

豊洲の歴史のキーのひとつに!!

 渡邊家からは、そのほかにも主に明治以来の膨大な書類が見つかりました。細かい地図や当時の地価入りの土地台帳、いろんな取引の文書類、戦前の教科書類・・・・。とても素人の私では分類さえ出来そうにありません。幸い倉敷市教育委員会の市史編纂委員会というところが引き受けていただけるということで、分析その他お願いしてしまいました。また渡邊正爾さんが趣味で集めていたと言う膨大な書籍類(トラック一杯)は、島根県の収集家が一手に引き受けられて、「渡邊文庫」として保存されるそうです。
 この豊洲地区の歴史を調査するにあたって、江戸期から戦前までの名家の記録は外せません。いわゆる大庄屋は、高沼(現在の早高、帯高、高須賀地区)の片山家、西田の木村家、中帯江の永瀬家なのですが、現存するのは片山家のみです。幸い片山家の記録は片山新助さんの手で「倉敷市史」「早島の歴史」に細かく記載されています。この豊洲の歴史を書く上では、何回も引用させていただくことになりそうです。
 そしてそれに次ぐのがこの渡邊家でしょうか。片山家の400町歩とは比較できませんが、30数町歩の大地主の家が現存し、古文書類も保存されているのです。郷土史家にとってはまさに宝の山といったら言い過ぎでしょうか?どれだけわかるかわかりませんが、素人郷土史家?の私もがんばってみますので、読者の皆様よろしくお願いいたします。(2004,8)


山陽TVイブニングニュース(8月19日)で報道される。尚、このページの映像はすべて同ニュースからのものです。

PS:私事に渡り恐縮ですがこの渡邊家の調査の中で、江戸末期の4代目ご当主渡邊茂吉のところに嫁いだのが、我が杉原家の大元家にあたる杉原久次郎の娘「多津」であることがわかりました。なんだか遠い親戚と聞いていたのですけれどもこういう形で証明されてしまいました。

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