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安原備中守のこと

  豊洲の歴史を探索していますと、ときおり「安原備中守」という名にゆきあたります。「我が家は安原備中守の子孫だ」という家があるのです。中には「このお墓がそうだ。」といわれます。また倉敷市西田には長年「安原備中守」と称される土地もあり、碑が建立されています。また早島町にはこの安原備中守を記念する碑があります。

「安原備中守」と称される土地 早島町の安原備中守を記念する碑
世界の石見銀山の発見者

 では安原備中守とは誰なんでしょう。一般的に言えば「早島町出身で、石見銀山で新坑道を発見して世界銀山に押し上げ、家康から『備中守』の称号をもらった人」ということが知られています。
 どうやら戦国末期から江戸初期に活躍した人で、石見銀山が世界的な銀山として知られるような活躍をした人らしいです。そしてこの地元では、鶴崎神社の再興はじめ、幾つかの地元神社に寄進し、吉備津神社のお釜殿の寄進者としても知られているのです。

島根県大田市の山中でした

 石見銀山は、島根県中部、大田市の市街地から10キロばかり中国山脈に入ったところにありました。16世紀に発見され、17世紀には世界の1/3の銀を産出したという日本の銀山のなかでも、主要な鉱山だったのです。江戸時代を通じて掘り続けられましたが、今は廃坑になっています。そして世界遺産に登録しようと遺跡整備が進んでいるようでした。
 当時の代官所あとが石見銀山資料館になっていました。「よみがえる石見銀山」ということで、当時の山中に建設されていた都市が発掘中で、その様子が展示されていました。一説では20万人もの人が来ていたとも言われるそうです。おそらく後背地であった温泉津なども含めた人口だったのでしょう。でも最盛期の江戸の人口が100万と言われたころのことですから、当時としては世界的な大都市だったに違いありません。この資料館では学芸員の方にいくつか資料をいただき、また解説していただきました。

石見銀山資料館再現されている龍源寺間歩石見銀山清水寺
そこへやってきたのが、安原備中守

 この石見銀山は戦国時代を通じて、大内氏、尼子氏、そして毛利氏といった有力大名の争奪の地でした。そして1600年(慶長5)関が原の戦いの後徳川家康の手に落ちるのです。こうした石見銀山に早島からやってきたのが「安原伝兵衛(田兵衛)知種(因繁)」とその一族。時期は諸説ありますが、ここでは「天正中(石見銀山清水寺縁起)を採用しましょう。1573年~1591年の間になります。流れとしては毛利氏支配の最中です。
 安原伝兵衛は、信仰していた観音様のお告げにより、「釜屋間歩」を発見。一躍石見銀山繁栄の時代を築いたといわれます。1603年(慶長8)8月に伝兵衛は、銀山奉行大久保長安の紹介で伏見で家康に拝謁し、備中守の名とともに羽織と扇子を拝領したそうです。
 安原備中が建立(中興)したと言う「清水寺(せいすいじ)」にそのお墓がありました(右写真)。もっとも本当のお墓は山上にあり、資料館に写真があるのですが、まだ整備されてなく、行くのは困難だそうでした。これは釜屋間歩も同様で、現地には行けませんでした。

実は商人だったのでは

 資料館の学芸員の方が言われました「安原備中は山師だったと言われますが、当時の山師は実は商人で、資本を投下して鉱山経営にあたったのです。安原氏は備中でそうした経験があったのではないでしょうか。おそらく職人群といっしょに、一族でこの石見に来て活躍したものと思われます。」
 これは私には驚きでした。なんとなく彼は一人で石見に行って、たまたま・・・などと理解していたものですから。そう解説されてみると納得です。たしかにそのほうがいろんなことに符節があいます。彼は1588年(天正16)から1617年(元和3)にかけて、吉備津神社や鶴崎神社(早島)への寄進を繰り返しているのです。吉備津神社お釜殿の再建は有名です。安原備中が鉱山経営者だとすると、何度も早島と石見を行き来したことがわかりますし、早島や倉敷市豊洲地区に子孫という人たちがいることにも納得できます。
 いただいた資料(石見銀山資料解題『銀山旧記』)には「この(釜屋間歩の発見)結果銀山は繁栄し、安原が召し使う者だけで千人を超え、・・」や「大阪の陣の時(略)銀堀300人を連れて、松平正綱の陣に加わり・・」などの記述がありました。また「住友史料叢書」には倉敷銅山(帯江銅山)に安原備中がまだ備中になる前に営業していた古い坑道があるという江戸期の記述が紹介されていました。
 安原備中はやはり早島で財をなしていた、鉱山経営者(商人)だったようです。(2004,10)

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