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安原「備中守」のなぞ

 安原備中守についてはすでに書きました。でも、もう4年も前のことです。今回新たな興味といいますか、疑惑?に行き当たったのです。
 そのときに書いた倉敷市西田にある「安原備中守」という名前がついた土地のことです。そこにある石碑のなぞについてです。
 気になる、気になる・・・・ということで再訪してみました。大きな楠木の下の小さな石碑ですが、表にはこう書いてあります。

 『霊亀元年
 高祖草部備中守正義塚
  ○○○○○五日』

 また、裏には

 『明治二三年二月
  安原蔦七郎○義智』

 霊亀元年とは、まともに読めば西暦で715年?奈良時代の初期になります。ここは江戸初期の新田地帯です。何かの間違い??と4年前には見落としていたのですが、どうも気になります。
 気をつけて読めば、「明治23年にこの地に住んでいた安原蔦七郎と言う人が、家に古くから伝わる伝承を元に碑を作ったと解釈できるのです。「我が安原家の先祖は、奈良時代にさかのぼり、草部備中守と言っていた」という伝承が、この安原家に残されていたようなのです。

徳川家康との会見で・・

 えっ、そうすると。おそらく江戸初期にこの地に入植した安原家は早島の安原家から出たというのが順当な見方でしょう。
 そうすると、早島の安原家にも同じ伝承が残されていたと考えるべきでしょうね。当然「安原備中守」もそのことを知っていた・・・。

 ここで私の思考は一挙に400年を遡ります。そう、あの徳川家康との大阪での会見のことです。
 大久保長安の推挙で、石見銀山の功労者として時の為政者徳川家康に謁見した安原氏は、その功により家康から「備中守」の称号を贈られたといわれています。
 でも、なぜ「備中守」なんだったんでしょうか?。出身が備中というだけでは何か論拠が弱い気が私はずっとしていたのです。
 で、この石碑の登場です。
 当時安原氏がこの伝承を知っていたとすると、当然自分の出自を家康の前で述べる、「私の遠い祖先は草部備中守と聞いております。」云々と言うに違いないのです。
 で、家康が「うむ、そうか、それなら今後そちも『備中守』を名乗るがよかろう。」とおもむろに言う・・・。
 こんな構図が浮かび上がってくるではありませんか。
 私の「安原備中守」に関する謎の1つが一挙に解けたような気がします。(2008,12)

PS:「草部備中守」については、今の矢掛町にあった「備中国小田郡草壁郷」に代々伝わった「庄氏」が想定されます。初代猿掛城主でもあったようですが、この庄氏は鎌倉時代に関東から来た人といいます。なら、早島安原氏の先祖はその前に備中草壁郷にいた一族ということになるのでしょうか?

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