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金比羅街道を歩く・早6、
市場から茶屋町入口まで

10、市場から街中を
 松尾坂を下り、県道より一本手前が旧道のようです。そこを西へ入って少しのところに金毘羅灯篭がありました。文化14年(1817)とあり、このあたりの金毘羅灯篭の例にもれず「金毘羅大権現」「吉備津宮」の両方の名があります。土台石には「市場村講中」とあり、ここが以前の市場村であったことがわかります。傍らには道標もありました。また最近早島町が設置したらしい「金毘羅往来の燈篭と道しるべ」という詳しい解説文が建てられています。なるほどなるほど・・・。


 道はそこから少し折れて「早島駅筋」で旧の宇喜田堤の県道152号線に出ます。そこからは早島の市街地を一路西へと進みます。

 途中に荒神社がありました。ここにも「宇喜田堤と早島」という解説版がありました。早島町の地域の伝統への取り組みがよくわかります。またここには岡山県南に特有の「五角柱地神」がありました。「天照大神」を中心とした神式のものでした。この謎はまだ解けていないのです。そのうち何時か解いてみたいものです。

 しばらく進むと「小浜(おぼう)の樋」の解説版がありました。もとの三番川の重要な樋があったところです。バス停として地名が残っています。私たちにも懐かしいですね。

 そのまま進むと、正面に鶴崎神社の鳥居が見えてきます。金毘羅往来はここで県道と分かれて、その鳥居のすぐ手前を左に、旧道へと進みます。ここでも古い町並みが残っています。

 県道を横断していくと、突然広いところに出ます。用水がとても広くて、心が洗われそうです。ここへは「弁財天港跡」という解説版があり江戸時代の早島の積み出し港の1つとして活躍した港だそうです。
 船はここから汐入川を下って瀬戸内海へと出ていたそうでした。尚、弁財天の名前は近くの厳島神社の、祭神に由来するそうです。あら、そうだとすると厳島神社は元は弁財天で、明治の廃仏毀釈で名前や祭神を変更させられた可能性が高いですね。

11、用水沿いを茶屋町へ
 金毘羅街道はここから一挙に景色が変わります。元早島領の高沼村、高須賀村の境を流れる用水沿いの、直線の道が延々と続くのです。「道の横には川がある」このあたりの新田特有の景色が広がっています。

 道は途中の浜川との交差点で左に折れ、茶屋町の入り口である「水門橋」へと続きます。あれっ、直進した人もいたのでしょうか?

 水門橋は早島の船本、弁財天から出た船が通った汐入川の橋で、昔はここにも港があったそうです。そういえば今でもここは川幅が少し広くなっているようですね。またここは帯江、茶屋町から曽根にまでいたる用水「浜川」が汐入川を潜る「底樋」があるところです。こうした大土木事業が江戸期からなされていたことは興味深いところです。
 写真は有名な?「水門橋のお地蔵さん」です

 金毘羅街道はここから茶屋町の街中を南下、かっては殷賑を極めたという茶屋町金毘羅さんへと続きます。そして天城藤戸から由加山を経て下津井へと続くのです。(2013,5)

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