軍事工場から自動車工場に
水島の現代史、三菱自動車
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 水島の現代史を語るとき、三菱自動車を抜きには語れません。私なども同級生や知人に三菱自動車関連で働いていたり、今も働いている人が何人もいます。ではまず最初にその歴史を概括することにいたしましょう。

軍事工場として誘致され、戦災で廃墟に

  •  太平洋戦争の拡大とともに、軍部特に海軍の要請と、岡山県当局の大企業誘致方針により、水島に軍用機工場誘致が決まり、1941年以降あわただしく用地を造成しました。
  •  1943年9月、三菱重工業航空機製作所岡山工場が設立され、このとき現在の水島臨海鉄道も敷設されます。
  •  そして軍用機生産が始まりました。建設計画では従業員2万人余りとありますが、実際にはわかっていません。同時に東高梁川の廃川地に社宅群や福利厚生施設なども次々に建設され、今の水島市街地の先駆けとなります。
  •  翌年2月には一号機が完成。一式陸攻504機(右上はその模型)、紫電改7機が生産されたといいます。
  •  1945年6月22日、グアム島から110機のB29が水島に飛来、603トンの爆弾の雨を降らせました。この爆撃で、水島航空機製作所は工場の建物10棟が全壊、18棟が半壊、製造中の航空機数十機が破壊され、主要工場は全壊という被害を受けました。ただこの日は公休日だったので、2万人を 超える作業員のうち.死者11人、重軽傷者46人と記録されています。しかしその後も敗戦まで米軍艦載機の攻撃があり、周辺の民間人も含めて被害が出ているといいます。
  •  この項の写真は三菱自工PRセンターのもの。左下は戦時中の地図。工場の南に飛行場が描かれています。右下は当時のイメージ図です。

PRセンターの見学をさせていただきました

 三菱自工水島製作所の戦後の歴史を「水島の歴史」の中で語るにあたって、工場見学をしたいと思ったのですが、岡崎など他の工場と違って平成31年10月いっぱいまで見学できないとのことで、PRセンターの見学を申し込みました。
 国道430号線を進んでいきますと、三菱自工の工場が、アニメのキャラクターとともに現れてきます。PRセンターは東門の所にあり、受付でSさんに応対していただきました。さすが大企業の受付を担当されるSさん、美しいご婦人でした。ここで工場紹介ビデオを見せていただきながら、詳しい説明を受けました。内部の展示の写真撮影もできて、私にとっては工場の歴史がよくわかり、この記事を書くことができました。良かったです。

オート三輪「みずしま」号からの戦後

 では、この三菱自動車水島工場の戦後を概括してみましょう。

  •  戦災で壊滅した三菱重工業は、終戦とともに民需工場としての再生を図り、昭和21年よりオート三輪の生産へと取り組みます。機械、プレス、組み立ての一貫工場が完成、昭和30年にはオート三輪5万台突破となります。
  •  昭和36年には軽4輪「三菱360」が発売されます。いよいよ本格的な自動車時代が日本にも到来しつつある時代でした。この「三菱360」は昭和38年には累計10万台となり、その後昭和45年創立25周年には、自動車生産100万台突破、社員6,000人へと発展、溶接ロボットなどの導入も始まっています。  ここいらは、私の青春時代ともダブり、同級生の何人かもこの工場で活躍したという往時が偲ばれます。


  •  一方この時代、設立された硬式野球部は都市対抗野球に出場。三菱水島としての福利厚生や地元貢献なども顕著になってきています。
     昭和50年代には、500ccの軽「三菱ミニカ5」、普通車のミラージュ、ランサーなどが生産されるようになります。
  •  平成になると、バブル崩壊の中でも月産100万台となり、創立50周年には自動車生産累計1,500万台となります。
  •  また2009年には電気自動車「アイミーブ」を市場に投入、一挙に社会的注目を浴びます。
  •  一方でその後のリコール隠しの問題や、最近の燃費改ざん問題などで社会の批判も受け、再生に取り組んでいるようです。

一方でミーハーの私の工場見学は

 説明の中で一番注目したのはこの工場が、鋳造からプレス、組み立てと、自動車生産のほぼ全ての工程を担っていることでした。もちろん多くの地元協力工場との協業抜きには語れないのですが、説明では「世界でも稀有な一貫生産工場」ということでした。また車体生産の原料である鋼板が、すぐ近くのJFE西日本製鉄所から収められているというのは「納得」でした。

 そして最後に1996年のラリーで優勝した「三菱ランサー」の前で記念写真に納まり、貴重な見学を終えたのでした。(2018,1)

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