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全国一の箸工業

 私が子供の頃母に連れられて里に行っていたころのことです。茶屋町の手前の倉敷市帯高に確か「はし会社」と言うものがあったことを記憶しています。最近まであったような?と記憶をたどって資料を探していますと、「帯江村史」に次のような記事がありました。

「帯江村史」の記事から

 「帯高の産業というと、一時は全国の八十%もの箸の生産をしていた山渋製箸工業があります。大正十四年に藤本源平氏(山渋吉太郎妻の兄弟)がアメリカから帰り、「これまでの日本箸より割り箸が日本の食生活には最適」との信念から、翌年帯高の地に工場を求めて創業したものです。原木は北海道や樺太(現サハリン)から引いて売り出しました。しかし当時は大不況で、箸まで倹約する時代、販売もはかばかしくなかったといいます。
 しかし割り箸が最も衛生的と信じて努力を重ね、昭和六年の犬養内閣のころ景気も回復、衛生を奨励されたため、割り箸業も順調に発展し始めました。
 製造機械については、山渋吉太郎氏が苦心して研究し開発、特許認可も得て箸製造を軌道に乗せました。最初は近在の市へ出していましたが、昭和七年からは東京市場へも出荷、順調に発展しました。」

 なるほどなるほど、なかなかすごいものですね。でも戦後はどうなったのでしょうか? 今では広かった工場跡地は住宅が立ち並んでいます。
 いろいろと調査していますと、以前に山渋製箸工業で働いていたという人が見つかりました。早速岡山市の今の職場にお訪ねしました。以下インタビューの主要な部分です。

箸会社で働いていた人の記憶

 『私は18歳で製箸の仕事にたずさわって、10年近くあの工場で働いていました。主に箸製造の様々な機械を作っていました。
 この資料(帯江村史)のあとですが、他に割箸の会社がなかったこともあり、全国のほか満州(現在の中国東北部)へも出荷するなどもありましたね。 戦後も事業は順調で、昭和37年の岡山国体で昭和天皇が来られた際、食事をなさる御箸も山渋製箸工業が製作しました。このときの御箸は手作りでした。宮内庁の御役人の立会いの下に、カンナ作業などが行われていたのを見ていました。
 私は主に製造機械を工夫して改良製作することに従事、全国で地元の方が箸工場を立ち上げるのを援助して、製造した様々な機械をそこへ納めて廻りました。関東から西の全国三十ヵ所あまりに及んだでしょうか。
 そんなこともあって、山渋製箸工業は日本の箸では最高のブランド品として扱われ、各地からのOEM供給なども行われました。
 登録商標としては「匠」と言う字の中が「正」になった字を使い、「かねしょう」と言いました。

割り箸の製造工程は?

 高級な箸は松材で、製造方法は主に次のようでした。
・ 丸太を箸の長さに切ったものを、一晩熱湯で煮る。消毒のためと木をやわらかくするためです。これで熱いものに箸をつけても箸の色が変わりません。
・ 乾燥選別作業。昔は天日乾燥と日陰乾燥でした。
・ 板状に削ります。丸太を回転させて、大きなカンナの刃のようなもので均等な厚さに削っていき、板状にします。
・ 裁断します。
・ 仕上げ作業。
 板状に削る機械は大きなもので2台、そのほか裁断や仕上げの機械もそれぞれ20台程度ありましたが、工夫して鉄工所に注文して作ってもらっていました。
 工場ではそのほか廃材を利用した折箱やアイスキャンデーのスプーンといった小物も手がけていました。』(このインタビューの文責はHP作者にあります)

 この方が工場を離れたのちも、こうして全国に名を成した「山渋製箸工業」、昭和の終わりごろまで続いたと言われます。

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