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帯江は観音様だらけだった!!
ーー田沼時代に作られた、帯江西国三十三観音ーー

 八十八ヶ所霊場で有名なのは四国です。私たちが小さい頃、笠岡市神島(こうのしま)の八十八ヶ所もけっこう有名でした。後に得た知識として「児島八十八ヶ所霊場」というのがあることや、「西国三十三観音霊場」というのがあることなども知ってはいました。
 また「帯江の観音様」といえば普通はお隣の豊洲地区中帯江にある不洗観音寺のことになりますよね。
 ところがです。ところがですよ、みなさん。この帯江地区に「帯江西国三十三観音霊場」というのがあるというのです。もしかしたら「帯江の観音様」というものの半分はこちらであるかもしれないのです。本当に驚きでした。
 多津美公民館郷土史講座6月例会で講師の池内節光さんから教えていただいたのです。

心鏡寺内の一番から始まって・・・
 池内さんは資料として別項のような地図を作って配布し てくださいました。見ると心鏡寺(羽島)の境内にある1番、2番から始まって、浜川筋の14番、茶屋町の31番、そして駕竜寺の33番で終わっています。
 池内さんは「明和8年と書かれていますので、1771年に作られたことになります。」と言われていました。今から230年前、江戸時代のことになります。
 別に池内さんの資料では「心鏡寺の最誉住職によって三十三ヶ所が成立して」(倉子城23号「鴨方往来に沿って」から)とあり、江戸時代に心鏡寺さんが中心になってこの「帯江西国三十三観音霊場」というのが成立したことがわかります。

亀山・浜川筋の14番亀山・新橋の26番同左アップ
田沼意次の時代、大干ばつの翌年
 うーーん。1771年と言われてもピンと来ないけど・・・と手持ちの年表を見て みました。
 すると1771年とは江戸中期で、徳川吉宗や大岡越前の時代の約3~40年後、ちょうどあの田沼意次が側用人から老中への道をひた走っていた時代だったのです。
 いやそれよりも1770年からの大干ばつの最中だということや、この頃には全国で百姓一揆が相次ぎ、幕府や諸藩が取り締まりに苦労していた時代でもあったということのようなんです。また有名な「伊勢お蔭参り」が最も流行した時代でもありました。
 旗本戸川家の領地だったこの帯江の地も決して平穏ではなかったと予想されます。
 そうした騒然とした時代、地区内の要所要所に観音様が配られ、民衆が拝んだわけです。あるいは一番から三十三番まで巡礼したのでしょう。なんとなく当時の帯江の人たちの心情がわかるような気がしてくるではありませんか。

浜川用水沿いにも配置されて・・
 早速我が家の近くの十四番と一六番を訪ねてみました。なんとそれはどちらも石の祠の中に、地区のお地蔵さんと仲良く同居しているではありませんか。
 これらのお地蔵さんは今でも夏の23日にはその地区で礼日としてお祭りが行われています。観音様も同じに多くの人たちに毎年拝まれていたのです。
 いや、待てよ。地図をみますとこの十四番、一六番のほか、二十六番などが浜川用水の要所にあります。大干ばつが全国をおおっていた時代、命の水である浜川用水の守り神としてもこれらの観音様が配置されたのではないでしょうか。
 「帯江西国三十三観音」、今回は速報にとどめ、今後まだまだ調査をして第2稿にて追加報告をしたいと思います。(2001,6)

帯高の9番?心鏡寺入り口の6番

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