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帯江観音石仏、全部判明
ーー謎が解けました!!--

 私が住む倉敷市の東部、帯江地域とその周辺には、江戸時代中期に成立した「帯江西国三十三観音石仏」があるというのは、以前にお伝えしました。
 そしてこれまで、そのうちの17,24,28,32番の4つが行方不明であったのです。ところが最近情報が寄せられ、その全てが判明しました。

大正期の案内書が見つかる

 近くに駕龍寺というお寺があります。そうそう、この石仏のうち33番の結願石仏、これは私が「酒樽観音」と名づけた全国でも珍しいものですが、それがあるお寺さんです。
 この駕龍寺の新しい住職が、倉庫を整理されていて、一つの書付を見つけられたのです。
 「帯江西国霊場巡拝案内記」という小さな書付です。下にコピーを載せておきます。文字などから見て、どうやら戦前に石仏霊場を巡拝する際の案内書として作られたもののようです。10番などに大正15年の案内石碑が整備されていることから、どうやらそのころのものと想像されます。
 「巡拝導師、法輪寺、心鏡寺、駕龍寺」とあるところをみますと、やはりこの3寺がこの霊場の主要な役割を果たしているようです。
 そして、こjこにはこれまで所在不明だった4ヶ所がちゃんと書かれていたのです。

 22番  二日市 駕龍寺、17番 加須山 上灘、24番 法輪寺、28番 法輪寺。

駕龍寺と法輪寺の仏像3体がそうだったようです。

 ここには22、24、28番は駕龍寺と法輪寺となっています。
 これまで駕龍寺には他に19番と33番が門前で見つかっているのですが、22番は見つかっていません。そして法輪寺は周辺にあるのですが、寺域からは見つかっていません。それなのになぜ?不思議でした。
 そこで思い至ったのが1番が心鏡寺の脇持の金ぴかの観音様だったことです。心鏡寺、駕龍寺、法輪寺がこの帯江の石仏霊場成立に主要な役割を果たしたとすると・・・。「不明だったこれら3体は、もしかしたらそれぞれのお寺さんにある仏像なのではないか?」と思い至ったのです。
 駕龍寺に問い合わせますと「本尊の観音様は秘仏ですが、もう一体観音像があります。」と大きな仏像を紹介していただきました。
 また法輪寺では「うちにも2体の観音像がありますよ。」とのこと。今回立派な観音堂を建設されましたが、そのなかに納められているそうです。(右上写真)
 どうやら新発見の書付からして、これら3体の観音仏像が、帯江西国三十三観音霊場の、これまで不明だった、22,24,28番さんなのに間違いはないようです。

そして最後の17番は「上灘(かみなだ)」地区に?

 ということで探索しました。でもなかなか見つからなかったのです。
 そういえば「灘」地区って、江戸時代は「下灘」が加須山村で「上灘」は有城村飛び地であり、共に帯江戸川家の領地内だったことに思い至りました。特に「上灘」は明治の合併の折「帯江村」でなく旧倉敷村の「新田地区」に編入されたのでした。それでこれまで「帯江戸川家領内にある霊場」と考えて探していた網の目から、盲点となってこぼれ落ちていたのです。
 すわっ、と勇み立って探し回りました。
 お聞きすると、「上灘」は今の2号線から北の向山の西の山すそだそうでした。「上名田」というバス停が県道にあります。「ふ~ん、今はこの字を当てているんだ。」などと考えながら、広い墓地や旧道沿いなどを綿密に調査したのですが、見つかりません。
 しばらくして、ようやく情報をお寄せいただきました。「2号線のすぐ南にありますよ。」と。
 行ってみると、たしかにありました。「う~ん、昔はここまで上灘だったんだ」というおそらく古い地域境に「○○公園」というちいさな公園があり、そこに17番の石仏を納めた観音堂があるではありませんか。横には元は寺院と言うよりはお堂の跡があります。おそらく平安時代の「日間山(法輪寺)5院12坊」の1つがあったのではないでしょうか。最近までお祀りされてきたのでしょうね。貴重な情報をありがとうございました。
 これで「帯江西国三十三観音霊場」が全てそろったことになります。よかったです。(2010,8)

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