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帯江戸川11代目の人

 私の帯江戸川家調査もなぜか急がされていますので、順序とかにかかわらず手当たり次第という様相になっています。おまけに原稿を書きながらの調査となってしまいました。
 先日も先日とて、帯江戸川家の地元での菩提寺が、元陣屋の裏手の妙忍寺だということを初めて知るありさま!!。とるものもとりあえずお訪ねして、墓地などを写真に収めさせていただいたのですが、そのときに「戸川さん、いつも参ってこられますよ。」というお話をお聞きしたのです。

兵庫県川西市に

 さっそくその方を兵庫県川西市の団地のなかにお訪ねしました。
 「安愛ー錦造ー定太郎ときて私ですから、11代目になります。」戸川宏三さんは、私を迎えて快活にそうに言われます。私の趣味の名刺を一読され「おや技術職ですか。」また目の良いお年よりにであいました。毎年帯江妙忍寺のお墓参りにこられているという宏三さんののお話が続きます。
 「8代安愛は、”やすちか”と読むんですが、明治になって一族を引き連れて静岡藩に移住し、中老とか権大参事いまでいえば副知事のようなことをしていました。廃藩置県のとき、東京の士族家督を弟の最兔女栄秀(もとめ・ひでのぶ)に譲り、旧采地の羽島に来て民籍になりました。平民になったのですね。そのとき晩香と名乗って、あとはずっとそれを使っています。で、私まで続くのですね。」
 詳しい系図を出されて解説していただきました。
 「錦造まで、だから大正あたりまでは、あの帯江陣屋のところに住んでいたんです。次の定太郎は営林署勤務でしたから、四国九州から最後は盛岡と、全国移り住んでいます。」

大量の資料、帯江戸川文庫

 「先日倉敷市の市史編纂室の方が来られて、ほとんどの資料を貸しました。コピーされたのでしょう。詳しいリストを作ってくれましたよ。」なるほど出てくる資料には小さい付箋がついて、リスト番号が打ってあります。200を越える資料。帯江戸川文庫とでもいうのでしょうか。
 「これ、明治のころの買い物帳です。二年分ありますが、とうふとかなんとか、値段があるでしょう。」面白い資料です。それにしても達筆!。晩香さんの筆跡だそうです。
 「東京から帯江までの往復したときの旅費の明細もありますよ。」岡山から帯江までの人力車10銭というのがまず目に付きました。当時東京まで往復でおよそ22円かかったようです。
 朝廷からもらった「伊豆の守」とかの証書もあります。同時にその御礼をこれだけした・・・というリストの書きつけもありました。今でも書道などで免状をもらうときは、かなりの御礼をしているといわれますが、このリストをみますと、○○守になったお礼は、朝廷や御公家さんたち、また幕府の上役たちへと、半端なものではなかったようです。

 

3000坪の江戸屋敷の図面、中央線飯田橋駅前あたり

  帯江戸川家江戸屋敷の図面が出てきました。1.2mX1.4mくらいのおおきなものです。「御屋敷又御住居御家中絵図」とあります。門の前には「間口38間5尺(約70m)」などと書いてあります。文政5年のもので、3000坪(約1町歩=約1ヘクタール)もあったとか。
  まず目についたのは、正門の両側の門長屋とその奥の玄関です。でもとても詳しく見る時間はありません。デジカメであちこちをパチパチ、後日ゆっくり見せていただくことにしました。
 「江戸屋敷の場所はどこです?」今度は当時の江戸の地図を出していただきました。ここです。というのえを見るとたしかに「戸川伊豆」とあります。小石川門と牛込御門の間で、近くにはもっと広大な水戸藩邸などがみられました。今の東京ではどのあたりになるのでしょうね。
  後日現在の東京の地図と照らし合わせてみました。「水戸藩邸」とは、現在の東京ドームや小石川後楽園を含む一帯のようです。そして肝心の戸川邸は!現在でいいますと、「東京都千代田区飯田橋3丁目5番地」。ちょうどJR中央線飯田橋駅の前のあたりになるようです。地図だけではよくわかりませんが、飯田町変電所のすぐ南、今はイワタビルという建物が建っているようです。どんな方が住みまた働いておられるのでしょうか?

 

徳川慶喜とともに、8代安愛(晩香)の年譜

 先年宏三さんが資料を元に作成されたと言う「戸川晩香年譜」というものをいただきました。
 「ちょうど今、この8代さんの原稿を書いているところです。助かります。」と私がつぶやくのを、目の前の戸川宏三さんも嬉しそうにニコニコと目の端に入れて、さらに資料の説明にかかっておられます。
ざっと「戸川晩香年譜」に目を通させていただきました。詳しくは「8代安愛」の項に書きますが、この安愛(やすちか)という人、28歳で家督相続をするとすぐに目付けに抜擢され、以後ずっと最後の将軍徳川慶喜の側近として、江戸、京、大阪、はては四国、山口、福井、長崎にまで、軍艦をも駆って獅子奮迅の働きをしているようです。
そのため明治政府から追放され、平民となって静岡を経て郷里に帰り、ここ帯江の地に骨を埋めています。帯江小学校初代校長だったというのも私、気に入りました。

明治の頃の戸川家家族写真勝 海舟の掛け軸もありました

 

帯江戸川家と、足守木下(杉原)家は、すごく近かったのです

「杉原さんと言われますと、足守の杉原家と何か関係がおありですか?」お茶を運んでこられた奥様が思いがけないことを言われました。「ええ、我が家はいちおう江戸時代に、足守(岡山市足守)の杉原家の何男かが、御免地をもらって干拓地へ出たということになっていますけど。」けげんに思いながらも答える私。
「私、足守の木下家からこちらへ来たのですよ。」と奥様。岡山市足守の木下家といえば、戦国時代は杉原家で、あのねねさんの兄の家系です。意外なことをお聞きして、ひとしきり話題が盛り上がってしまいました。
お聞きしたところではこの奥様の祖母(木下家)にあたる方も、杉原家から来られているとか。
そのうえ、帯江戸川家9代錦造氏の妻董(しげ)さんも、木下本家のご出身で、この帯江の地に長持を連ねて行列して嫁入ったというお話が伝わっているということでした。先の「戸川晩香年譜」では、1883年(明治16年)10月のことです。”秋の佳き日”元殿様の姫君が、この帯江の地に御輿入れ!さぞかし賑わったことでしょうね。
ということで、お話をうかがえばうかがうほど私、なんだか個人的にも親近感を深めた取材行でした。(2002,7)

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