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海の底で上に成り下に成り組みあって・・・
源平藤戸合戦に新事実!ー沖ヶ市の激戦ー

 有城荘の方々と「源平藤戸合戦 佐々木盛綱の海渡りコースを歩く」と題したフィールドワークを行っていたときのことです。佐々木盛綱が平家陣に上陸したという先陣庵の下の辺りで、1つの石碑を見つけました。何と『源平藤戸合戦沖ヶ市激戦地跡』とあるのです。
 えっ、「沖ヶ市」?知らない?だいたい佐々木盛綱の海渡りに驚いた平家は、ろくな抵抗も出来ずに逃げ散ったのでは??私の不明がまたまた明らかになりそうです。
 石碑の裏には「平成2年9月3日藤戸史跡の碑 倉敷市粒江 渡辺三郎建立」とあるではありませんか。さては個人の郷土史家の方が建立されたのだ。これはお訪ねして教えていただかなくっちゃ!早速古い電話帳を見ると、ありました。

段ボール箱一杯、直筆の資料が

 「あ、三郎は祖父です。もうだいぶ前無くなりました。生前書き溜めたものがあるのですが、毛筆で書かれているので読めますかどうか?」電話に出られたのはお孫さんのようでした。早速お伺いして資料をみせていただきました。
 段ボール箱に一杯の資料。しかもどれも和紙に毛筆で書かれたものです。達筆で読破には苦労しそうです。でも先輩の貴重な郷土史研究。いちおうお預かりしました。ありがとうございます。


 渡辺三郎さんはまず書かれています。
 「現在の急速な発展のめまぐるしさ。ともすれば忘れ去られ様としている郷土の歴史、又古くからの伝説を保存しようと思い立ち、不説乍ら市町村史等図書館にて、不読乍ら一筆書きおきたく、幸いに郷土には史家各位のご協力を拝聴いたしまして、倉敷市の成長伝説源平藤戸古戦場を述べ書きたく存ず・・・・」
 お~、すごいです。郷土の伝説など聞き歩き、また図書館にこもって調べて、こんなにも大量の、それも直筆の資料を残されたのです。
 とても全部は読みきれません。ざっと目を通し、興味深い部分を写真に収めさせていただきました。

源平藤戸合戦の沖ヶ市激戦とは

 で、出てきました。「藤戸合戦源氏の勝利」と題する一冊の中にその記事はありました。出典は明らかではありませんが、非常に興味深い記事ですので、関連部分のみここへそのまま転載します。

 「佐々木三郎盛綱と合戦
  (略)
 佐々木三郎盛綱は今日を晴れと直垂に緋縅の鎧 白星兜 連銭葦毛の馬に金覆輪の鞍を置いて乗り、家之子の和比八郎、小林三郎党の黒田源太を始めとして15騎を従え、乗り出し岩のあたりからざっと海へ乗り入った。
 志賀九郎、熊谷四郎、高山三郎、興○太郎、橘三、橘五など5騎が・・・
 総大将範頼はこの有様を見て盛綱の無謀に驚き、馬で海を渡る事が出来ようか、佐々木三郎盛綱を呼び返せと下知したので、土肥、梶原、千葉、畠山などの武将がその旨を承りて、戻せ返せと大声に呼んだけれども、渡海に自信のある盛綱は耳にも入れないで海を渡ってしまった。
 馬の背の立たない深い所は手綱を放して人も馬も泳いで渡った。
 浅くなってから物の具の水を払い落として馬に乗りて弓を取り直して先陣庵のあたりへと沖ヶ市へ上陸した。
 そして鐙を踏ん張り弓枝にすがって大声に
 今日海を渡り敵陣に進む大将軍をば誰かと見る。宇多天皇の皇子一品式部卿敦実親王より九代の孫近江の国住人佐々木源三秀が三男に三郎盛綱也
 平家の方に我と思わん者は大将も侍も落合わせ組や組やと名乗りをあげ敵陣に駆け入った。
 源氏方ではこれを見て、海は浅かりけり、佐々木討たすな渡せ者共、と言って、土肥、梶原、千葉、畠山などの武将が我先にと乗り入れて5千余騎が間もなく向こう岸に上陸した。
 平家は度々扇を揚げて招いたが、さすが海であるから船を持たぬ源氏方が渡って来るとは思わず、防備充分でなかった。  源氏の渡海を見て賑やかに戦闘準備をして、前線の者や船に乗っていた者は弓矢をもって源氏の上陸を阻止しようとしたが、源氏方はそれに屈しないので前進を続け、大体盛綱が上陸した付近に達したようである。
 しかしこの時刻頃には平家方の後方部隊も逐次前線に増加されたものと考えてよいだろう。
 そして弓矢の遠戦がしばらくあった後、源平両軍の主力が沖ヶ市から舟津原一帯にかけて衝突したらしく、刀剣熊手の白兵戦に入ったのである。
 とにかく勝敗を一挙に決しようとした大決戦であった。猛烈な正面衝突であったのである。

 佐々木三郎盛綱の家子の上総国住人和比八郎と云う者が、平家の侍で讃岐国住人加部源次と云う者と海岸付近で組み合ったが、どちらも豪の者であり、もみ合っている中に一緒に馬から落ちたとして、上になり下になり右左に転んでいたが、遂に源次が勝って八郎を据えて首をかき取った。
 この勝負は源平共に目をそばだてて見ていたが、八郎従兄弟の小林三郎重隆という者が源次に落ち合って又組み合い、転んでいる間に、二人とも海の中へ転びこんだ。郎党の黒田源太が続いたが、海の中まで続くわけにも行かず、今に上がるかとしばらく待ったが上がってこない。
 両人は水の底でも上に成り下になって、もみ合っていたので、源太は波の荒い所へ弓のほこを差し入れてあちこち探していた所、敵の源次が弓の竿に取り付いた。
 引き上げて見たら敵であったが主人の三郎も源太の服に抱きつき上がってきた。
 そこで源太は敵の首を切り主人を助け上げた。

 この様な激戦の末、平家が大敗して叶わずと見てとり、海岸近くに居た者は船に乗り、弓矢の戦闘を続けながら後退した。
 源氏はこれを追ったけれども舟が無き為渚までしか続かず、残敵を逃がしたのであった。
 又一部清滝越えから青木谷付近の高地に居た者は、船に乗る余裕がなく、清滝越えに今の福田福江広江方面に退却したものの様である。
 こうして夕暮れまでには戦いは全く終わり、平家の残敵は海陸から屋島の本陣に逃げたのであった。」

 この渡辺三郎さんの記述、出典は明らかではありませんが(ただ私が知らないだけかもしれませんけどね??)なかなか迫真の戦闘描写ではありませんか。ぜひ皆様によんでいただきたいと思って、ここに転載させていただきます。う~ん、「源平藤戸合戦沖ヶ市の激戦」なかなかすばらしいです。(2011,4)

写真は藤戸寺の「佐々木盛綱海渡りの図」右が源氏、左が平家

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