「郷土史おもしろ講座」のページへ戻る

佐々木盛綱の海渡りコースを歩く

  800年前の源平藤戸合戦、当時の源平合戦の帰趨を分けた合戦であり、当地の歴史を大きく彩る大事件でもありました。
 この合戦で現時の武将佐々木盛綱が漁師から情報を得て、海の浅瀬を馬で渡り、対岸の児島に陣を敷く平家を打ち破ったという逸話は良く知られています。
 じゃあ、何処を渡ったのだ・・・?出発点の「乗り出し岩」や上陸地点の「先陣庵」はそれなりに有名ですが、海渡りルートとしてはあまり知られていないと言えます。
 今回地元の老人福祉施設「有城荘」の歴史講座の一環として、みなさんとこのコースを歩いてみようという企画を立てました。

岩盤が露出した「乗り出し岩」

 倉敷市街から東南に、向山から有城地区へとなだらかに延びる山塊が、当時の源氏の陣地と想定されています。その南、有城地区の西部、今はベルタウンという団地に上がる道の近くに「佐々木盛綱の乗り出し岩」があります。大きく岩盤が露出していて、今にもそこから現時の武将が馬で現れそうですが、当時の海は今は陸、馬ならぬ20人の足で、対岸の児島へとたどってみる事にしました。
 「さ、さ、ざんぶと・・・」などと軽口をたたきながら、県道を横切って、倉敷川の橋を渡ります。

最初の神社は?

 橋を渡ったところにあったのが、小さな神社です。実は「海渡りルートには後に祭った神社や祠が点在している・・・」という情報があったのです。さてはこれが?
 地図には神社名などは記されていません。どういう名なんだろう?どうやら地元の方々に丁重にお祭りされているようです。
(後に地元の人に取材したところでは「あれは滝宮(たきのみや)さんです。水の神様と聞いとります。」「以前は『牛頭天王(ごずてんのう)』と拝んでいましたよ。」というお話でした。)

 お隣に小さなお堂がありました。のぞいてみますとお地蔵様のほかに小さな観音様が祀ってあり、大きな額に『児島西国・・・成相寺・・精浦庵』と読めます。旧児島群一帯にも西国33観音霊場があって、ここは28番精浦庵というお寺さんだったようです。
 また傍らには岡山県南に特徴的な五角柱の地神様があります。あれっ、天照大神が北に向いてない?さてはどこか近くから移されたもののようです。
 またこれもどこからか移されたのでしょう、自然石の金毘羅灯篭と想定される立派な灯篭もありました。
 おや何やら「100周年」の碑が?大正7年の建立になっています。確かここらは粒浦新田(寛永21年(1644)以前開発)のはず。近くの八軒屋新田も承応4年(1652)のはずです。どちらも100周年ではないし??1つ謎が??

 どちらにしても「佐々木盛綱海渡りコース」に想定されるここが、この地域で永い事「聖地」とされていた場所として存在して来たのは間違いないようです。

大己貴(おおなむち)神社

 倉敷川の土手をしばらく東南に進みます。先年植えられた「河津桜」がそろそろ花を開きかけています。春のうららかな眺めです。
 次に遭遇したのは、最初の神社とほぼ似た神社でした。地図上には大己貴(おおなむち)神社とあります。大己貴(または大巳貴)とは大国主のことです。あ、大黒さんを祭っているんだ!!。でもこの種の神社は明治政府の廃仏毀釈のせいで、名前や祭神を無理やり変更させられた例が多いのです。さてここはどうなんでしょう?でも、最近に屋根を葺き替えたり、建物を修理したりしたあとがありますね。立派になっています。

(ここも後に地元の人に取材してみました。「あれは熊山様ですよ。」ということでした。岡山市赤磐市の霊峰熊山山頂の熊山神社を勧請したのでしょうか?熊山神社は祭神が大国主命だそうですから話は合いそうですね。でもそちらも祭神が変更されたと言う説もあるそうですから・・・?)
 ここにも五角柱の地神様がありますし、水神様と思われる小さな祠もありますね。

土手横の小さな高まりは?

 倉敷川の次の橋へとさしかかります。その角に小さな高まりがあり、石で区画されています。今は大きな木が生えていますが、もしかしたらここは昔地域の聖地?。そんな雰囲気ですね。地神様などがあったのかもしれません?断定的なことはいえませんが、これはいつか取材してみなくては・・・。
 もしそうだとすると、ここも「海渡りルート」にゆかりのあるものとして存在したのかもしれません?

自然石の立派な金毘羅灯篭も

 そこからは倉敷川に別れを告げ、東粒浦団地の中を南に抜けます。吉岡川を渡って左へ。間もなく右斜めに、旧道と目される道へと入って行きます。有名な鞭木は間もなくです。
 その旧道の入り口に、立派な自然石の金毘羅灯篭がありました。すごい立派です!「下の柱石が出っ張っていますでしょう。これは男性の○○を象徴していると言う人も入るんですよ。」  えっ、そんな事を解説??そうです。私の解説は常に「面白講座」ですからね。さてあなたの見立てはどうでしょうか?

佐々木盛綱の鞭が大木になった

 佐々木盛綱が間もなく児島の平家陣へ上陸寸前、「もうこれは要らない」と手に持った鞭を海の浅瀬に突き刺します。ところがいつのまにかその鞭から芽が出て葉が出て、いつの間にか天をつく大木になった・・・。その木が残って祀られているところがあるのです。それでこの辺りの地名にも「鞭木」という名が付いています。今回知ったところでは近くに「鞭木さん」もおられるらしい?
 さっきの旧道から家と家の間を少し入ったところに鞭木がありました。大きな木です。2本になっているのかな?この木は江戸時代に枯れて、今は二代目の大木らしいです。元の木を利用して佐々木盛綱の木造が彫られ、今は藤戸寺にあるといいます。
 木のすぐ横には「塩釜神社」がありました。「塩」も「釜」もなんだかすごい難しい文字で、ここでは表せませんね。ここらで昔製塩が盛んだったのでしょう。
 また傍らには法界地蔵や五輪塔がありました。ここも地域の聖地なのです。

いよいよ先陣庵へと到着

 瀬戸中央自動車道の側道をしばらく南下して信号を右へ。おや何か石碑が?「源平藤戸合戦沖ヶ市激戦地跡」とあります。見ると個人の方が建てられた様子。ここにも知られていない源平合戦の逸話があるようです。
 途中から粒江の集落に入って行きます。家並みが切れて山に取り付いたところが西明院というお寺さんです。ここの境内にあるのが目指す「先陣庵」なのです。
 境内の正面にお堂がありました。今は小さなお堂で、お隣の西明院さんが管理をされているようですが、以前は先陣寺という大きなお寺だったそうです。佐々木盛綱が先陣かけて上陸した地に後に先陣寺というお寺を立て、やむなく殺してしまった漁師(浦の男)の兄をその住職にすえた・・と伝えられています。児島八十八箇所霊場では、43番西明院、44番先陣寺となっているようです。

 実はその漁師の子孫だと言う家系が現存し、そのお宅の珍しいお墓が西明院の少し上段にあると皆様を案内させていただきました。(詳しくはここ)
 この西明院さん、鐘楼に佐々木盛綱や浦の男の浮き彫りがあることや、上の段に立派な金毘羅大権現が祀られている事など見所満載のところでもありました。(2011,3)
PS:片道約3.7キロ。帰途には雨が落ち始めた一日でした。
inserted by FC2 system