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中帯江の大庄屋のご子孫

 倉敷市中帯江。早島丘陵南側に接し、豊洲地区では最も早く人が住み着いたところです。江戸期以降は不洗観音寺の門前としても栄えました。そこで、江戸時代に代々大庄屋や庄屋、年寄役などを勤めた永瀬家。今では永瀬家は30数軒になるのですが、元になる大きな永瀬家は、大前、中前、大後と3軒あったそうです。なかでも大前永瀬家といわれる家については、代々永瀬又七と名乗ってきたらしい・・という以外、詳しいことが分かっていませんでした。

 そして今回「大前永瀬家のご子孫が鎌倉方面で医者を」という情報が寄せられたのです。さっそく調べたところ、平塚駅前とわかりました。

永瀬又七は倉敷紡績で活躍

 JR平塚駅前のかって永瀬病院の在った跡地に市街地再開発事業で建替えられた21階建てのマンションの3階に永瀬医院は在りました。そして・・・。
 「いらっしゃい」。招き入れられたのは午前の診察が終わった診察室でした。私よりいくらか年齢も上でしょうか。その方は気さくに語り始めました。永瀬晋一郎さんです。
 「30年位前は家屋と土蔵がふたつ残っていたのですが無住のまま放置していたので痛んでしまい、昭和50年頃取り壊して跡地は整地して売却してしまいました。屋敷の裏山に在った永瀬家の墓地には30余りの代々のお墓が在ったのですが、これも先年すべて改葬して累代墓一つに致しました。改葬工事は土葬のものが多くて大変でした。」
 「つい先年、お寺もこちらの大磯へ移しました。」
 「江戸時代は、倉敷まで自分の土地だけ通って行けたそうです。池田侯(岡山藩主)に融通していたお金が御維新で返ってこなくなり田畑の大半を失って没落して、戦後の農地改革で少しだけ残っていた田畑も全て無くなったと聞いています。」
 「あそこ(中帯江)を出たのは、じいさんの永瀬又七(明治11年生まれ)の時です。又七は高梁中学から大阪工専(現在の阪大工学部の前身)に進み、遠縁になる大原家の引きで倉敷紡績に職を得たと聞いています。大原(孫三郎)さんと一緒に仕事をして、最後は本社の監査役か何かでした。」「家族は岡山に住んでいたのですが、又七は各地で工場を建てたり、高松や丸亀工場の工場長などをして各地を転々とし、昭和19年頃今で言うパ―キンソン病で亡くなりました。」
 あとで図書館で「倉敷紡績100年史」をみました。なるほど永瀬又七さん、7箇所にも登場します。

戦後の永瀬家のこと

 「私達は身を寄せていた母の実家のあった岡山の上伊福を戦災で焼け出されて、戦後に住む所が無くなり中帯江に祖母と母と兄弟4人で帰って来ました。私もちょうど3年生から5年生の1学期まで豊洲小学校へ通いました。
 当時は我が家の裏の空き地でで同級生の永瀬A君、永瀬J君、F君、等と手造りのボールやバットでの三角べ―スに熱中し、確かチョキとか言った棒切れを飛ばす野球に似た遊び、フナつり、網を仕掛けての雑魚の追い込み漁、カ―バイトを使ったテンゴ採り、パッタ、ビ―球、釘刺し、馬跳び、缶蹴り、蝉取り、イ草干しの手伝いや芦刈をしての小遣い稼ぎ、授業をサボっての倉敷や早島での映画見物等、学校から帰ると日の暮れるまで毎日遊びまわっていたのを懐かしく思い出します。今の私が在るのも当時の遊び仲間に体力、気力、胆力、競争心を鍛えられた事が、その後の自己形成の上ではとても大きかったと感謝しています。あの頃が一番楽しかったですね。今でも同窓会に行ったりします。」遠い目をして語られる永瀬さんでした。
 「又七の長男である永瀬一雄(実母の兄)は岡山一中から慈恵医専に進み軍医となって平塚の海軍病院に勤務したのち、昭和24年に平塚駅前で永瀬医院を開業しました。私も小学校5年で父の仕事の関係で鎌倉に転居、その後北大医学部に進み医者と成って、跡継ぎの居なかった永瀬家の叔父一雄の養子となって永瀬医院の後を継いで現在に至って居ます。」

大前永瀬家の屋敷跡 屋敷跡にある、井戸
古文書が木箱の中から

 「戦災でみんな焼けてしまってこんな物しか残っていません」といって出して下さったのが小さな木箱に入った古文書でした。ちらっと見ますと、文化とか天保とか、江戸時代の年号が出てきます。これは貴重なものですが、どうも私には読み下せないものです。お墓を整理した時の戒名のメモと共に預からせていただきました。

 後日、古文書に詳しい早島町のKさんをお訪ねして読んでいただきました。
 ほとんどが、領主であった早島の戸川家(旗本)から来た文書で、「切紙」という今でいうの辞令のようなものでした。上半分に内容があり、下半分に「永瀬又七」とかあて先が書いてあります。そして、包み紙に永瀬家のメモ書きがあり、これが年代や内容を特定するのに大変役に立つものでした。それぞれ番号が振ってあり、途中が抜けたものもありましたが、合計24通。享和元年(1801)から天保13年(1842)までのものです。これだけまとまって「切紙」が残っているのは珍しいそうです。貴重な史料のようですね。
 永瀬家の名前では、「亦七」「八右衛門正直」「又七尚直」「平三又七郎直翰」の4人が見られます。その間、「御勝手通(陣屋の台所へ許可なく入れる)」「独礼(一人で領主に会える)」「義倉方」「大庄屋」「惣庄屋支配」などの役に任命され、名字帯刀を許され、隣村の「金弾村(今の早島町金田)庄屋」もつとめています。
 江戸時代最後の当主「平三」さんは、先代の死去に伴い二日市の長瀬家から13歳で養子入りし、18歳から2年間江戸表で早島戸川家の役を無事勤めて(天保のころ)いるのは私にも興味深いことでした。

永瀬家のもとは?

 お預かりしたお墓の戒名は、江戸期は実名のないものでしたが、この古文書と年代を照らし合わせたところ、初代とみられる夫婦のお墓が浮かび上がってきました。いずれも1700年代初期になくなっています。宇喜田堤で、中帯江の多くが陸地になったとされているのが、1590年代。早島戸川家が分家したのが1628年。隣の西田新田ができたのが1652年、そして早島陣屋が完成したのが1709年(宝永6)となっています。おそらく永瀬家は、領主の早島戸川家の領内体制固めの過程の中で、どこからか移ってきて、領主の中帯江支配の担当として配されたのではないかと考えられます。中帯江の他の有力家(種野家、大森家)と違い、中帯江の丘陵地(古地)と新田地域とのちょうど境目に居を構えていたことからも、そういえるのではないでしょうか。

 そして、お訪ねした永瀬晋一郎さんどうやら11代目になられるようでした。  残念ながら古い早島町史の記述についての手がかりは今回も得られませんでした。(2006,2)

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