岡山県最古のお寺跡・秦原廃寺 総社市秦の後ろの山々は古墳の巣でした |
再び「古代吉備を語る会」に参加しました。
写真左は、JR豪渓駅から秦地区へ渡る「豪渓秦橋」から見えた「石畳神社」のご神体である岩です。 |
太古からあったらしく、暴れ川の高梁川のほとりのこの岩は、磐座(いわくら)として、「石畳神社」の祭神として祀られてきたとか。式内社として記録されているようです。
これは考古学的には未確定ですが、現在の想定伽藍です。
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この秦原廃寺ですが、出土物などから平安時代初期までよく栄えていたと言われています。
またこのお寺跡のすぐ西側の低山に、これから行く約60個の古墳時代前期から後期までの古墳群があり、この地域が古墳時代から平安時代までにかけて、この地方の一つの中心地(都市)として栄えていたことが想定されるではありませんか。 冒頭に私が書いた「なぜ有名にならない?」というのは、まさにそれこそ神話だと言えると思います。
歩いていて、ふと気が付くと目の前に見慣れたお宅があるではありませんか。これは皆さんから遅れてもお声をかけなくっちゃと。つい「ピンポン」。
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次はサントピアまで取って返し、眺望の良いところでお昼ごはん。やっと一休みです。
今度はサントピアから南西に向けて下って行きました。「秦大ぐろ古墳」「金子石塔塚古墳」と続きます。 右の写真は「秦大ぐろ古墳」で、吉備路の巨大古墳には及びませんが、全長56.2メートルの立派な前方後円墳になっているとのことでした。 あ、金子石塔塚古墳で、やっと横穴式石室が見えてきました。昔友人に「全国の石室巡り」をしている人がいて、「石室内で寝っ転がると、何ともいえない不思議な幸せ感がある」などとおっしゃっていたのを思い出しました。もう25年も前になるのですが、その平家蟹さんの記録を私のHPにも載せさせていただいたのがありますので、最後に紹介しておきます。ご興味のある方はどうぞ。 まあそういうことはともかく、古墳時代400年の後半である特徴の横穴石室もここにあり、次の白鳳時代の秦原廃寺へと続いているという事は、この秦地区がいかに長期にわたって栄え続けて来たかの証明でもあります。 下の写真、左は「金子石塔塚古墳」の石室の入り口。中央は中の石棺です。
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最後に寄ったのは、これも前方後円墳の秦茶臼山古墳(写真右・全長38m)でした。山の南端、平地との境近くに築かれたもので、古墳時代中期末ごろの築造と説明されていました。 人家に近いせいか上部が削られて、お墓や仏像などが祀られていました。 このあと、総社大橋をわたって、総社駅まで歩いたのですが、何と今日の私の歩数は28,000歩。途中で転落しかけて腕を負傷するなどどうやら限界を超えてしまったようです。 という訳で、このレポートも一週間後になるなど、結構長く疲れが残った、遺跡巡りでした。お読みいただいてありがとうございました。(2022,5,15取材) |