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 岡山県最古のお寺跡・秦原廃寺 
総社市秦の後ろの山々は古墳の巣でした

 なぜか有名にならない「秦」 

 再び「古代吉備を語る会」に参加しました。
 総社市秦と言えば、戦前に私の伯父が婿入りして、長く教員を務めたところです。
 そして全国にある「秦」という地名は、平安京(京都)遷都に功労のあった「秦氏」という渡来人集団(当時)の住んでいたところだと言われています。しかしここ総社の秦地域は「秦氏」との関連などという言うようなことをこれまで聞かないので、どうなんだろうと思っていました。
 そして「秦原廃寺」という県下最古のお寺跡もあるとか。
 でも、総社市の中心からかなり離れ、吉備路からも高梁川を間に離れていて、どちらかと言えば今も「田舎」に属するから有名になってないのかな??
 かって親戚にはたまに行ったのですが、ここで遺跡巡りでもあればぜひ・・・。と思っていたところでした。
 で、5月のある日曜日、出かけたのです。同行の方々は30数名でした。

 最初に登場・石畳神社 

 写真左は、JR豪渓駅から秦地区へ渡る「豪渓秦橋」から見えた「石畳神社」のご神体である岩です。


 太古からあったらしく、暴れ川の高梁川のほとりのこの岩は、磐座(いわくら)として、「石畳神社」の祭神として祀られてきたとか。式内社として記録されているようです。
 式内社とは、927年(平安時代)にまとめられた全国の神社の一覧です。そんな昔から中央で認められていた磐座信仰のお宮がここにもあったのです。
 もしかしたら、ここの「秦」も昔はすごい所だったのかもしれませんね???

 秦小学校の校庭の事 

 古い道を南下すると右側に秦小学校が見えてきました。なんとその校庭に「秦(原)廃寺の礎石由来」という説明看板が立っていて、それらしいものが複数あるのです。
 一瞬「えっ、ここまでお寺のエリアが広がっていたのか?」などと思いかけてしまいました。が、説明版には「秦小学校にある礎石は、古民家から移されたもので、直径五〇センチメートルの柱が立っていたと考えられます。」とありました。
 どうやら1600年という気の遠くなるような年月の間に、礎石でさえあちこちに移されてきたものと思われます。でもここにも「吉備国最古の飛鳥時代前半(7世紀前葉)創建の寺院跡」の証拠として残っているのだなと思いました。

 いよいよ『秦原廃寺跡』です

 いよいよ左手に「秦原廃寺跡」というのが見えてきました。さすがにここにはいろんな説明板が立っていて、地元の方々の熱意も伝わってきます。まずは「秦原廃寺伽藍配置模型」という写真と、総合的な説明版からご覧いただきましょう。

これは考古学的には未確定ですが、現在の想定伽藍です。
南門、中門、塔、金堂、講堂が南北に一直線に並んだ、
「四天王寺(大阪)」と同じ伽藍が想定されています。
 これは出土の瓦からも想定されたもので、建立は四天王寺
(593年)の直後(7世紀前葉)と言われています。

 続いて秦原廃寺の中心部と思われるところの現在の写真です。
 左と中央の真ん中に穴のある礎石(土台石)は、5重の塔の礎石だと言われています。
 右写真の左二つの土台は、上に円形の窪みがあり、明らかに廃寺の礎石と思われます。

 この秦原廃寺ですが、出土物などから平安時代初期までよく栄えていたと言われています。

 またこのお寺跡のすぐ西側の低山に、これから行く約60個の古墳時代前期から後期までの古墳群があり、この地域が古墳時代から平安時代までにかけて、この地方の一つの中心地(都市)として栄えていたことが想定されるではありませんか。
 さらに言えば、私の現在の研究テーマの一つである、平安時代備中東部山上仏教群(新山~宝嶋寺)へと続く、文化的基礎の重要な一つと言えるのではないでしょうか?

 冒頭に私が書いた「なぜ有名にならない?」というのは、まさにそれこそ神話だと言えると思います。

元の「厚生年金センター」から右へ

 歩いていて、ふと気が付くと目の前に見慣れたお宅があるではありませんか。これは皆さんから遅れてもお声をかけなくっちゃと。つい「ピンポン」。
 というのも、そここそ冒頭に触れた、かって伯父が婿入りしたお宅だったのです。従兄の奥様が出てこられて、早速ご挨拶。ところがこの方、この地域にある「秦歴史遺産保存協議会」の事務局をされていて、写真のような冊子(昨年発行)をいただいてしまいました。これはすごいです。後日このレポートを書くのに大いに参考にさせていただきました。
 そこから「サントピア岡山総社(元の総社厚生年金センター)」まで歩いて上がるのにも大変でした。そして、そこから左右に分かれて、古墳時代を通じて続いた、およそ60個を超える古墳群があり、その山道を巡ったのです。

 

最初は「一丁ぐろ古墳群」

 右の地図で、現在地(サントピア岡山総社)から北へ、点々とあるのが「一丁ぐろ古墳群」です。「ぐろ」の字は「土編に丸」で「わらぐろ」の「ぐろ」なのですが、なのですが、パソコンでうまく出ませんので、ここでは仮名にします。
 点々のなかに3つほどラッパの様なマークになっているのは「前方後方墳」で、大きくて時代は少し新しいものになるようです。
 道々案内の立札が立っていました。おや、「秦88ヵ所」のお大師さんが立っていますね。古墳地帯は神聖な場所として、昔の人もミニ88ヵ所をお祀りしたようです。


 古墳・・また古墳・・ 

 次はサントピアまで取って返し、眺望の良いところでお昼ごはん。やっと一休みです。
 ところがこれは「金子古墳」という古墳の上だという事に気づきました。おやおや本当にあちこちに、古墳、また古墳ですね。古墳時代400年にわたって「古墳」が築かれ続けたところ・・・。本当にすごいところです。

 やっと「横穴式石室」が。中へ入れました 

 今度はサントピアから南西に向けて下って行きました。「秦大ぐろ古墳」「金子石塔塚古墳」と続きます。  右の写真は「秦大ぐろ古墳」で、吉備路の巨大古墳には及びませんが、全長56.2メートルの立派な前方後円墳になっているとのことでした。

 あ、金子石塔塚古墳で、やっと横穴式石室が見えてきました。昔友人に「全国の石室巡り」をしている人がいて、「石室内で寝っ転がると、何ともいえない不思議な幸せ感がある」などとおっしゃっていたのを思い出しました。もう25年も前になるのですが、その平家蟹さんの記録を私のHPにも載せさせていただいたのがありますので、最後に紹介しておきます。ご興味のある方はどうぞ。

 まあそういうことはともかく、古墳時代400年の後半である特徴の横穴石室もここにあり、次の白鳳時代の秦原廃寺へと続いているという事は、この秦地区がいかに長期にわたって栄え続けて来たかの証明でもあります。

 下の写真、左は「金子石塔塚古墳」の石室の入り口。中央は中の石棺です。


 最後に寄ったのは、これも前方後円墳の秦茶臼山古墳(写真右・全長38m)でした。山の南端、平地との境近くに築かれたもので、古墳時代中期末ごろの築造と説明されていました。
 人家に近いせいか上部が削られて、お墓や仏像などが祀られていました。

 このあと、総社大橋をわたって、総社駅まで歩いたのですが、何と今日の私の歩数は28,000歩。途中で転落しかけて腕を負傷するなどどうやら限界を超えてしまったようです。

 という訳で、このレポートも一週間後になるなど、結構長く疲れが残った、遺跡巡りでした。お読みいただいてありがとうございました。(2022,5,15取材)


考古学界の山頭火、平家蟹さん岡山へ来る
平家蟹さんの古墳見て歩記(岡山編1) 吉備路の古墳の紹介です(写真入)(注)1~8まであります。




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