窪屋氏本拠地西部の遺跡群・上 緑山古墳群・江崎古墳・こうもり塚古墳・古代吉備国を語る会から |
今日は久しぶりに「古代吉備国を語る会」に参加しました。 このHPの過去の記事を見ますと、どうやら7年ぶりのようですが、そのころにはもうパラパラの参加だったようで、私の実感としてはほぼ10年ぶりかな~という始末です。 相変わらずお元気な主催者の出宮さん、大きなストライドでどんどん歩いて行かれます。周りは過去と同じくらい、40人くらいでしょうか?でも、過去に見た顔はほんの2~3人のように思え、なんだかみんな入れ替わって若返った様子です。その方たちがさっさと歩いて・・・。私も置いていかれないように必死????
なんだか冒頭から情けない繰り言で始まった今回のレポート。集合場所はJR桃太郎線(あ、吉備線がいつの間にか名前がかわったようです)服部駅。ここからいわゆる『吉備路』の西部を巡る一日でした。 |
ここはどうやら今の吉備路中心部を本拠にしていた『窪屋氏』の有力一族の古墳らしく、最後に見た8号墳は径33mと大きな円墳で、石室は15mもある奥が深い見事なものでした。
次は江崎古墳です。100個を越えるとみられる古墳群が続く、『国分寺裏山古墳群(今回勝手命名??)』のなかで、南西端にある大きな前方後円墳です。 この地区の後期古墳としては、こうもり塚古墳に次ぐ規模で「こうもり塚古墳を後継する吉備路最後の前方後円墳」と説明されていました。 次はこうもり塚古墳です。実はここは先々月に私、来たばかりのところです。
で、詳しい説明は省きますが、今回は吉備の古墳は前期に「造山古墳→作山古墳→小造山古墳→宿寺山古墳と倭国の大王陵級や全国レベルの規模の前方後円墳を系統的に」築いていて、吉備の本宗的な地域と説明されていました。 |
私などには「都窪郡」という名前などがポピュラーで」、それが明治の自治体合併で「窪屋郡」「津宇郡」が合併したものだというのは理解できるのです。 どうやら窪屋郡とは過去の吉備の本家的な一族の名前で、築造時は全国一と言われる造山古墳などを築いた前期から中期、そして再建されて後期にこうもり塚古墳や江崎古墳を築いたいわゆる「窪屋氏」が本拠を置いていたところと言えるようですね。
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続く・下へ |