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窪屋氏本拠地西部の遺跡群・下
宿寺山古墳・末ノ奥古窯跡・作山古墳・古代の高梁川 ・古代吉備国を語る会から

 お昼は備中国分寺でした。いい雰囲気の中で各自お弁当を広げます。私はここはつい2か月前に来たところですので、その思い出にも浸りながら、後半のための体力回復につとめた次第です。
 ちょうどお隣に早島在住の方がおられて、郷土史の話題に花を咲かせることが出来ました。

宿寺山古墳と末ノ奥古窯跡

 その国分寺から少し南へ。総社市宿の街を抜けたところにあったのが「宿寺山古墳」でした。上に上がると目の前には廃屋が。どうも茶室の痕らしく、どなたかがここへ茶室を建てて楽しんだ様子です。この近辺にはそんな風流な方がおられたようですね。
 かんじんの古墳ですが、後円部の半分くらいが削り取られて形がいびつになっています。でも5世紀後葉(470~?)の古墳で、全長が118mだそうです。  さきのこうもり塚古墳のところで、この地域は「造山古墳→作山古墳→小造山古墳→宿寺山古墳と倭国の大王陵級や全国レベルの規模の前方後円墳を系統的に」築いていて、と説明されていましたが、その最後の古墳となるようです。
 ここからは、さきの備中国分寺がよく見えました。

 そして、そこからしばし南へ。池のほとりで遠望したのが、「末ノ奥古窯跡」です。竜王山の横の尾根筋に残る須恵器を焼いた窯跡3基です。7世紀前半の飛鳥時代に、倭京(飛鳥)の権力者蘇我氏の氏寺などの瓦を焼いたものらしいということでした。
 どうやらこの地に当時蘇我氏と連合する勢力がいたのではと想像されているようです。

またまた作山古墳です・裏側は手抜き工事でした

 次はこれも2か月前に訪問したばかりの「作山古墳」です。2か月前には草ぼうぼうだった古墳が、きれいに刈り取られていました。地元の皆様ご苦労様です。  今回知ったのは、この古墳は築造時に、南側は堀切などいくつか手抜き工事をした痕跡があるのですが、古代の山陽道に面する北側は、写真のように立派な基壇を設けるなどきちんと工事がしてあるのだそうです。古代の人々の心情が想像され、面白かったです。

高梁川が東に流れていた跡に行き当たりました

 最後に行き当たったのが高梁川が古代に東へ流れていた跡という川です。まさに」残り川」ですね。当時の高梁川は、総社平野の北あたりから東へも分流し、今の市街地を横断し、井手→西原→溝手・・・・ときて、最後に足守川と合流していたそうです。
 その名残が今は小さな川として残っているとか。
 暴れ川「高梁川」の一端が見れた今回の会でした。(2018,12)

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