海の神様・箆取神社のこと
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桜と長い石段が有名

 「連島というと、厄神社の他に『ヘラトリ神社』って、変わった名前のお宮さんがあるんだって?」
 「そうよ、『箆取神社』と書くのよ。230段って言ったかしら。長い石段と、春はたくさんの桜で有名よ。桜祭りはぼんぼりが並んで、すごい賑やかなんだから。」

 なるほどなるほど・・・。それにしても箆取(ヘラトリ)って、変わった名前ですね。どんな云われがあるんでしょうか?  連島の少し西部、西浦小学校の西の急坂を車でそろそろと上がって行きました。ウネウネと行った先に、ようやく駐車場が。そして・・・。

長い回廊、”亀?の池”がお出迎え

 駐車場から一段上がったところから、左右に立派な回廊があります。すごい!まるで吉備津神社みたいではありませんか。
 左側から上がって行きますと、まずは「池」がお出迎えです。亀?をかたどっているんでしょうか?それとも後に述べるように「海の神様」なので、まさかクジラ??

7世紀のころ鎮座? 祭神は海神

 回廊を曲がりながら2段に渡って登って、ようやく拝殿などのある所に出ました。すごい立派な社殿です。さすがに塩飽大工の作といわれるものですね。

 受付におられた方にお伺いしました。「神主さんですか?」
 「いえ、それは父で、私は見習いみたいなものです。」 ご謙遜を!
 「ここの祭神は『大綿津見命(オオワダツミノミコト)』などで、大綿津見命は海の神様で、今はここは広い平野や工業地帯に囲まれていますが、以前は海の神様として、たくさんの信仰を集めていたんです。」
 「大綿津見命は、古事記で海幸彦に借りた釣り針を失った山幸彦が、針を求めて訪れた所の神様なんです。」

 なるほどなるほど・・・。資料を見ますと、その大綿津見命の娘でここ箆取神社の祭神の一人、豊玉姫命が海幸彦と結婚していますね。

 「壬申の乱(672年)のころに鎮座したことになっています。前面の海上に〇に箆という字の神紋が現れて、それで『箆取大権現』というようになったそうなんです。」
 「江戸時代の宝暦年間にはこの地方の総鎮守として栄えたそうです。」
 「桜は明治のころからどんどん植えられ、今は100本を越えています。」
 ではまた、春に撮影に来なくっちゃ・・・・。

75社眷族も祭神です

 「ここは『神使七拾五社御眷族』も祭神になっていまして、『水火盗難厄災開運の神』としても、霊験あらたかなんですよ。」
 おや、お狐さんも祭神で災難除けに効くのかな?そういえば、いつか連島の力士を取材したとき、「美女のお万狐」さんがおいででしたね。さてはこちらのお使いだったのでしょうか?

大本教3代補の方の碑が!

 拝殿の横に「神恩洪大」と書かれた立派な石碑がありました。説明を見ますと「倉敷市出身の大本三代教主補出口日出麿(1897~1991)の書で、青少年時代に当神社によく参詣されていた記念として・・・」と書かれています。
 出口日出麿さんといえば、昭和10年(1935)年の大本教第2次弾圧(治安維持法など)の時に逮捕され、ひどい拷問で精神に異常をきたした方。出口王仁三郎の後継者と目されていた方です。
 説明では「弾圧で苦難に遭遇、依頼神仙の境遇にあって、書画をよくし(略)清澄にして・・・」とあります。
 それにしても、先の日本の戦争に協力しなかった数少ない宗教教団の、トップに近い人の碑がここにあったのには驚きでした。
 なお、この石は四国の青石という「稀有の名石」だそうです。

その他にも見どころ満載のお宮さんでした

 帰ろうとしたら神主補?さん、「まだまだ珍しいものがありますよ。石の方位盤もそうです。」と案内していただきました。
 そのほか、絵馬殿の大きな干支絵馬各種、さざれ石の夫婦岩、倉敷芸術科学大学生徒の巨大な奉納絵馬などです。またここからの水島の眺めも絶景でした。

 また私が初めてこの箆取神社を知ったのは、倉敷市帯高の竜王神社に「箆取神社」と書いた石碑があったことからでしたが、今回ここの石段を寄進したのか、茶屋町の旧家佐藤家の名前の入った石柱も発見してしまいました。帯江地域でも、かってはここ箆取神社への信仰が広がっていた様子がしのばれました。(2017,9)

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