- 水島の街は戦時期の都市計画で出来た
水島の街は戦時期の都市計画で出来た
広い道路、多い公園そして・・・
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 私が水島に来て思ったことは、「道路が広いし、公園が多い。なんて住みやすい土地なんだろう。」ということでした。
 ところが今回水島の歴史を研究している過程で、この水島の街並はさきの太平洋戦争の戦時期、昭和17年(1942)の都市計画によって、そのほとんどが出来上がったという事実が浮かび上がってきたのです。

戦争遂行のために計画された水島

 図書館で水島関係の本を見ていた時、「水島のなりたちと亀島山地下工場」(編集発行亀島山地下工場を語りつぐ会)という本が目に留まりました。
 その中にはもちろん「亀島山地下工場」関連記事もありましたが、今回私の注意をひいたのは「戦時期の「工業都市」建設計画と水島の成り立ち」(上羽修)という一文でした。
 なんと、現在の連島、水島、福田といういわゆる『水島地区』全体が、戦争遂行のための飛行機工場とその厚生施設として計画され、作り変えられていたのです。
 す、すごいですね。しかし、この文を書いている私にとっては「重い?」取材になりそうです・・・。どうしよう??
 で、本の末尾、「あとがき」を書いておられるのが吉田弘實さんだというのに気が付いたのです。吉田さんは私の実家の近くで、わりと親しい方。これは彼に聞いちゃえ・・・というわけで、さっそくお訪ねしたのでした。

昭和17年の『連島都市計画』のこと

 私より10歳ばかり若い吉田さん、もう40年近く倉敷市役所水島支所にお勤めだそうです。「何をしゃべればいいんですかね?」と言いながら、快く迎え入れていただきました。


 「私が水島に就職した1970年代から、戦争中にこの地域であったことを多くの人に聞き、三菱の社宅や寄宿舎跡、滑走路跡などをいつも目にしてきたんです。また日ごろ目にする水島の街並みが、かっての水島航空機製作所の付属施設の織り成す景観だということにも気が付いたんです。それでこの本です。」  「昭和17年(1942)の『連島都市計画』というのが見つかりまして。もちろん三菱重工水島航空機製作所が出てくるのを前提とした都市計画ですが。それには現在の水島の広い道路網がほとんど出ています。八間川や産業道路、古城池線や緑地帯がある環状道路など皆そうです。細い街路もほとんどが当時のまま今に受け継がれています。街路は6m以上。それと面積の3%以上を公園にするという基準もあって、今の公園はほとんどその時にできているようです。」
 というわけで、下の地図を見せていただきました。1942年3月に決定された「連島都市計画街路」だそうです。36m以上の広い道路10本を含め50本の街路が計画され、当時の国鉄と工場とを結ぶ専用鉄道(水島臨海鉄道)も敷設されています。

水島の街並みの原型は三菱重工の社宅

 なるほど、そういうわけですか。この地図では町並みが書かれていますが、これは三菱社宅ですか?またこの本では、当時の三菱社宅跡がまだ残っていると・・・

 「そうですそうです。寿町には幹部社宅があって、庭付き一戸建てだったそうです。そのほか弥生町、常盤町、栄町には2戸背中合わせの寄棟が。また八間川より西には4軒長屋の工員社宅がありました。現在も点々と残っています。」


 えっ、そのあたりは私が毎日早朝散歩で通っている所ではありませんか。でもその目で見ていないので気が付いていません。早速カメラをもって散歩を。いくつかのそれらしい建物を撮影させていただきました。


矢柄住宅も三菱社宅だった

 先の地図では連島の中央あたりに、真四角で碁盤の目のような街路が書かれています。ここは「矢柄住宅」と呼ばれるところで、私が小学校5~6年のころの恩師、松田勇先生が当時お住まいでした。で、お訪ねしてみたのです。先生はもうなくなられていましたが、奥様がご健在で、矢柄住宅について次のようなお話をしてくださいました。
 「ここは戦争中の三菱重工の社宅だったんです。みな一戸建てでした。工場が戦災で亡くなったでしょう。それで住民がみんな故郷へ帰られて空いて、戦後になって売りに出されたんです。それで主人は2軒分を買って、金光町から親も呼んで住んだんだそうです。
 ここでは今ではもう建て替えられた人が多いのですが、私の所は当時のままで手を入れて住み続けたんですよ。」
 本当になつかしい訪問でした。すべて一戸建てだったということで、どうやらここも幹部社宅だったようですね。というわけでここでも写真を撮らせていただきました。

元の住民は追い出された・戦時下の名で

 ところでこうした経過を見るとき、当然気になることがあります。これらの戦時都市計画を実施する際に、そこに元々住んでいた住民がいたはずです。その方たちはどうなったのでしょうか?  先の本「水島のなりたちと亀島山地下工場」には次のような記述があります。(p65)


 開拓農民2世の話
 「私が2,3歳の時父が廃川地に入植しました。福山などから来た開拓農民はみなトタン屋根の本当の野小屋で生活しながら、蘆(アシ)がいっぱいだったから、その根をうがしては一生懸命、農地をこしらえていったんです。入植された方はものすごう苦労されています。僕らそれを見ながら大きくなったんです。私の土地が何町歩あったかわからないんですけど、昭和16年に突然、軍の命令で安く買い上げられ、強制的に移転させられました。私の家は2階建てでしたが、それを解体して今の東川町に建て直しました。」(以下略)
 この項は「水島の先人たちの記録・水島東川町の物語」参照
 今回の取材。今の水島の街路や町並みが、戦時中、戦争遂行のための工業都市計画に由来するという驚くべき事実。外部から水島に来た私にとっては、本当に大きな驚きでした。(2018,4)

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