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帯江戸川氏、現代サラリーマン物語
ーー「備中領主戸川氏の時代」調査の裏話ーー

 歴史を調べる時、私達はどうしても現代の自分たちと比較してしまいます。別の言葉で言えば、歴史における現代への教訓といったことに興味が集まるのです。ひとつは歴史の事件に現代との人間的共通項を無意識に探してしまいますし、もうひとつはそうした歴史を経てきた現代とは何かという意味付けをしてしまうということです。
 急に取り組んだ今回の帯江戸川家調査でしたが、私にとっては極めて刺激的で興味深いものとなったのです。いったい江戸時代の帯江戸川家とは何だったのでしょうか??

 戸川達安(庭瀬初代藩主)--戸川安利(帯江戸川氏初代)--安広(2代)--安村(3代)--村由(4代)--村真(5代)--安章(6代)--安栄(7代)--安愛(8代)
 とりつかれた4ヶ月間

 最初の注文は「戸川家が支配していた江戸250年の帯江を庶民的見地から書いてほしい」というもっともなものでした。しかし、当時の庶民生活というものは資料の乏しさからもなかなか表現しにくいものです。また表現しても、現代のわたしたちの生活からはほどとおく、「ふ~ん、そんなこともあったんだ。」以上にはなれないものがあります。
 今回私に課された短期の「戸川時代調査」。それはいきおい「戸川家」そのものの調査になってしまいました。それも「こんなことはたぶん過去に調査され書きとめておられるので、そのまとめでいいのではないか。」という雰囲気で。
 ところが調査をはじめてみますとこれがなかなかどうして、新しい事実が次々と現れ(もちろん私にとってということですが)、興味津々、とりつかれたように没頭してしまった4ヶ月間となってしまいました。

あぶりだされる一人一人の人間性

 私が最初に興味を持ったのは、二代の安広さん(あえてこの原稿ではみなさんをさん付けで呼ばせてください)のことです。
 この安広さん各種資料では、けっこうな出世で、とうとう勘定奉行にまで上り詰めています。偉い人だった??で終われば調査1丁上がり!なのでしょうが、私が「でもどんな時代に?」と当時の年表を繰ってみたのが間違い?のもとだったのかもしれません。
 「えっ、これは!!」
 そうなのです。どうみても同時代のあの悪名高い「柳沢吉保」さんと並んで出世しているのです。もちろんむこうは大名になるのですから並んでというのはちょっとごへいがあるのですが。でも年表を見れば見るほど、柳沢吉保が将軍綱吉の命を受けていろいろ動き回る、その周辺にいたことは間違いなさそうなのです。
 時代劇に江戸城で将軍が大名を謁見する場面がよくありますが、そのとき次の間あたりに控えているのが戸川安広さん、もちろん綱吉側近の吉保の意を受けて、、、。といった場面が何度も私の頭に浮かんできたのです。
 そのくせ元禄狂乱で吉保が荒療治をして、世間が立ち行かなくなったころ、後始末をまかされて「勘定奉行」なんて役に。おや、今の塩じい(財務大臣)の立場と似ているのかな?(ここらあたりは二代さんの項参照)
 でも庶民泣かせをやらざるをえない立場にたたされた安広さん、どうしたんでしょうね?。私としては板ばさみになり、良心の呵責に絶えかねて、、という図式に持っていきたいのでありますけれども?
 現に安広さん、勘定奉行9年で辞職。翌年には病で死去しているのです。現代に引き写せばさだめし企業戦士の過労死、、。これを「いいことはそうは続かないものだよ」と言うか「気の毒に」というかは、皆様の解釈におまかせするしかありません。私としては、なぜかここにも今の私の周囲のサラリーマン群像を見る思いで、「う~ん。旗本3,000石って、江戸城の中間管理職だったんだ。」とうなってしまった次第なのです。

社長が変わると激変する人事。ああ戸川家の運命はいかに?

 帯江戸川氏2代安広は、五代将軍綱吉のもとで大活躍し、勘定奉行にまで上り詰めたわけですが、その弟安村が3代目を継ぐときはちょうど将軍の交代期にあたり、先代とは逆に冷や飯生活を余儀なくされます。
 安村が分家時代持っていた東庄の300石は幕府に没収され、六、七代将軍の7年間は役につけず、元の小姓組でブラブラと過ごしています。これなど前将軍(前社長)のもとで活躍しすぎた?兄の反動ともみえます。
 ところが将軍が八代吉宗に代わった翌年の1717年には、突如「お使い番」となり「布衣」の身分にもなります。すでに60歳になっていた安村ですが、それから8年間老骨にむち打って各地に出張しています。
 その次の帯江4代村由も引き続き「お使い番」「布衣」として採用され、津和野(島根県)などへ出張しています。
 しかし将軍が吉宗から家重に代わると、たちまち「お使い番」を解かれてしまうのです。その流れからか次の5代村真はその代をほぼ無役で過ごします。6代安章は少しの間お使番になりますが、具体的な活躍は伝えられていません。
 こうして戸川家当主の経歴を歴史年表と照らし合わせて見るとき、私の目には現代のサラリーマンが、たまたま属した上司によってその出世が左右されたり、社長の交代で急に窓際におかれたり・・・といった図式とそっくりに見えてしまうのです。

 

 7代さん、甲府勤番支配の謎?

 帯江戸川家7代の戸川安栄は甲府勤番支配になります。無事に勤めればのちの大出世は約束されるものの、難役であることはすでにふれました。ここで面白いことがあるのです。
 「甲府市史史料編」に「甲府お城付」という文書がのっています。各代の甲府勤番支配の略歴などが載っているのです。それぞれ○年○月○日勤番支配に決まって、(3ヶ月後の)○月○日に江戸出立、(4日後)甲府着など赴任の具体的なことが精しく書かれています。
 ところがわが戸川因幡守安栄さんの場合だけは、「弘化3年2月24日甲府勤番支配被仰付」のあとは「同4年11月19日病気に付き」と突然退任しているのです。えっ、、どうなったの、甲府へ行かなかったの??。余りの記述の差に私も動転してしまいました。
 私の問い合わせに甲府市教育委員会の方も「ちょ、ちょっと待ってください。」と言われたあと、いろいろと調査していただいたようなのです。やがて「やはり来られるのは来られたようです。」という御返事と共に「御用日記 坂田家文書」というマイクロフィルムのプリントアウトが二年分、どさっと送られてきたのです。どうやら甲府の町役人の日記らしいのです。古文書に不案内な私。どうしましょう??
 達筆が続きます。でもボーっと見ていると、なぜか文字が浮かんでくるのです。あ、「戸川」とか「因幡守」とかいう文字をただ探しただけですけどね。
 でもありました。
 1、就任三か月後、戸川因幡守が来られるので出迎えるようにとのお城からの連絡があったこと。
 2、その翌日に「病気で出立しなかった」という連絡があり
 3、さらに3ヶ月後にようやく甲府にきて、巡視に出ていること。
 4、一年半後には「戸川因幡守は病気になって江戸に帰った。
という内容がかろうじて読み取れたのです。
 やはり7代さんは甲府には行ったようなのです。
 でもこの人、四万両の大借金のうえに、危ない甲府勤番支配を押し付けられ、渋って渋ったうえに、任期を半分以上残して病気で江戸へ帰ってきたようなのです。そして「免職」。
 それでも二年後には「元甲府勤番支配」と名乗ることを許され、順調に出世。ついには旗本最高位「大番頭」にまでのぼりつめることになるのです。よほど要領が良かったのか、捨てる神あれば拾う神ありなのか??。波瀾に富んだ帯江戸川家7代安栄さんの江戸城での人生、現代のあなたの職場でも似た人を見つけることができるのではないでしょうか?

「企業戦士」、旗本3000石の寿命 

 江戸時代は人の寿命は今よりずっと短かったと言われています。しかし旗本3000石帯江戸川家の当主ともなると、次の表のようにそれなりに長命です。

1代49歳5代70歳
2 56 6 70
3 72 7 58
4 87 8 52
 しかしこれを見ると歴然と二つに分かれているのに気が付かれると思います。2代、7代、8代と幕府要職について活躍した人は、家を起こした初代とともに、みんな50代までで亡くなっているのです。さきの2代さんなどは今で言えば「企業戦士」の燃え尽き症候群、過労死と言うことができると思います。
 それにくらべ、窓際にいたり、そこそこに務め上げていた3代から6代までの4人は、みんな70歳以上と当時としては天寿をまっとうしているではありませんか。
 もちろんどちらの人生が良かったなどと言うつもりはありませんが、ここでも私は当時の旗本3000石が、江戸城の中間管理職としてストレスのおおい立場におかれていたという感を深めたのです。
 なんだかそこに今の私達サラリーマンを見る思いでした。それだけに取材を通じてその諸経歴の行と行との間に滲み出る8人の苦労、喜びや悲しみ、人間性などに触れて共感し、少々ファンになってしまったことを告白しないわけにはいきません。ついついこうして、取材余禄を書いてしまったのも、そういった理由からでした。お読みいただいてありがとうございました。(2002,10)

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