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吉備の春の国見・日差山から

 「し、しまった!デジカメ忘れた。」というわけで、このレポートは写真無しになってしまいました。トホホ・・。ショックはしばし尾を引きましたが、それを吹き飛ばすような晴天でした。(それでも、後日撮影に行った写真を貼り付けました。)
 今日は「古代吉備王国を語る会」第208回例会。題して「吉備の春の国見」です。

日差山は『吉備の聖なる山』

 日差山(ひさしやま)は、倉敷市北部の福山から東へと連なる山で、古代吉備の多くの遺跡はこの山を取り巻くように配置されています。弥生楯築墳丘墓からは真西に見え、王陵と言われる造山古墳からは真南に見えます。前回の例会では、三角形に見えるこの日差山を背後にして、尾根筋に囲まれた造山古墳の位置が『中国の風水による王陵の地』だということが話題になりました。
 日差山はまさに『吉備の聖なる山』なのです。
 今日は、この日差山周辺の遺跡を巡りながら、一気にその頂上を目指して「吉備の国見」となりました。コースは備中高松駅から「惣爪塔跡」「矢部遺跡」「日差山廃寺」「鷹巣城跡」「楯築遺跡」「日畑廃寺」と約10km。(万歩計22,000歩からはゆうに12kmはあったような?)今日はそのうちから日差山探索中心にレポートします。

山塊の東西に毘沙門天信仰が

 なだらかな稜線に続く登山道は、先週から残る桜が今まさに散ろうとして、桜吹雪が一行を各所で包みます。疲れもしばし癒される行程でした。
 そうするうちに鳥居が見え、毘沙門様の社殿に到着しました。これが以前にはお寺だったそうで、「日差山廃寺」だそうです。山塊の西半分の福山がそうだったように、ここも奈良から平安時代にかけて山岳仏教が栄えたのだそうです。
 社殿の裏の大岩には磨崖仏(まがいぶつ)が彫られ、毘沙門天でした。総髪のように見えるのは兜姿なのでしょうか。足下には天邪鬼を踏みしめているようです。「ここへ来たらこの磨崖仏を見ないと意味ありませんよ。」との説明もありました。地図では「毘沙門天・日差寺」と書いてあります。毘沙門天は元々ははヒンドゥー教の神だそうで、仏教に採り入れられて多聞天とも呼ばれ、日本では七福神の一人になっているとか。

 うむ、まてよ。そういえばこの山塊の西端にある浅原安養寺も毘沙門天だったな?何か関連はないのかしら? 
 もしかしたら、この日差寺(天平勝宝6年(754)に報恩大師が開いたと伝えられる)も、福山寺山岳仏教大伽藍の一つなのかもしれませんね。

磐座(いわくら)・岩座・巨石・・頂上は巨石でした。

 そこから少し上ったところが日差山山頂。巨石があちこちにというより、巨石により形造られた場所というほうがいいでしょう。ぞくに言う「磐座(いわくら)」です。吉備のあちこちにある山頂に露出した巨岩群(瀬戸大橋付け根の鷲羽山もそうでしたね)のうちでも特別立派なものと見うけられました。
 「あの毘沙門天さんは、つい昭和の時代までは祭日はお参りが盛んだったそうです。人の流れがここまで続いたという話しです。たしか尼さんがおられたんですよ。」なぜかお隣は地元出身の方のようです。そういえば、この巨石群の一画に「○○尼」という真新しいお墓が設置されています。
 「あの岩に彫られた壷のような凹みがあるでしょう。いつの時代のものかわかりませんが、あそこに何か置いて祭事を行った跡です。」なるほど、いくつかの岩にそうした人工的な穴がみられます。巨石信仰は縄文とも弥生とも言われる昔からのものと聞きました。もしかしたら2,000年前の人々がこの地でお祭をしたのかもしれません。真東の楯築や真北の造山の方向をむいて、千切りを切る姿が目に浮かびました。
 あれっ、地図をみますとこの日差寺からほぼ真東にある楯築遺跡、その線を延ばしていったらなんと「吉備津神社」にどんぴしゃりあたるではありませんか。これが偶然の附合としたらすごいことです。むしろ2,000年前に計画的に造られた??!!と夢想したほうが、夢が膨らみますよね。皆様はどのように思われるでしょうか?

PS:行程は日差寺(毘沙門天・187.7m)、日差山山頂(213m)を経てさらに奥にすすみ、江田山(227m)のさきにある「鷹巣城址」での昼食となりました。ふー。日頃から運動不足を自認する身にとってはけっこうきつい道中でした。なお、この鷹巣城址については詳細不明ということでしたが、吉備一円を見渡せる景色は一級品でしたね。(2004,4)

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