ここまで倉敷市の奈良平安時代の事を書き進めてきましたが、なんだか平安の山岳仏教がこのあたりに多く集まっていた様子がうかがえるようになりました。
そこで、この「備中東部を南北に貫く『大仏教寺院群』」と題して、少しまとめてみました。
北から順に触れていきます。
- 新山寺、岩屋寺
温羅(うら)伝説で有名な総社市の鬼ノ城周辺にかって新山寺という山岳仏教の寺院があったそうですが、そのあたりから岩屋寺あたりまでが、かって山岳仏教の聖地として栄えたそうです。最盛時にはあわせて38坊と言われたとか。
平安末期に、宋へ派遣される高僧がここで修業したという記録があるそうです。「総社市史通史編」364ページから一部を抜粋します。ここでは、
新山寺は平安中期には、新山別所と呼ばれた。
成尋(じょうじん)(1011-81)は求法巡礼のため、延久4年(1072)入宋し、五台山等、聖跡・諸寺を巡歴し、彼の地の明州開宝寺で死去。北宋の神宗皇帝から善恵大師の号を送られた高僧である。この成尋が渡宋の前に、新山別所で修業した。このことは、成尋の母親の文章である『成尋阿闍梨母集』(略)および成尋の著作『参天台五台山記』に見える。
として、その後に内容を詳述しています。新山寺が当時都でも有名なお寺だったということでしょうね。
- 福山寺
今の倉敷市の北方にある福山にあったお寺で、一山12坊といわれました。
詳しくは「倉敷の北の山「福山」は吉備の歴史を残していました」をどうぞ。
- 日差山寺(ひさしやまじ)
上記福山山塊の東端にあって、庄地区の条里制の地域を見下ろす位置で栄えました。17坊といわれ、今の庄地区の諸寺の多くはここのお寺が下山したものと言われます。
詳しくは「日差山にあった山岳仏教聖地・今は庄地区全体に広がる日差山寺」をどうぞ。
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